頼朝公の挙兵を前に一族が敵味方に訣別する葛藤と決断を描いた歴史演劇「鎌倉四兄弟」とは?

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頼朝公の挙兵を前に一族が敵味方に訣別する葛藤と決断を描いた歴史演劇「鎌倉四兄弟」とは?

「敗者は歴史を語れない」

歴史とは往々にして勝者の視点からのみ描かれ、ややもすると「勝てば官軍」「勝者=正義、敗者=悪」という勧善懲悪的な価値観にとらわれがちです。

しかし、物事(特に戦争など)には必ず相手があり、たとえ勝者に何一つ落ち度がなかったとしても、敗れた側にも相応の言い分があるのが普通です。

最近では、そうした「敗者にもまた正義や美学、理想があった」という視点を採り入れた作品も出てきましたが、今回はそんなテーマで上演された地域演劇「鎌倉四兄弟-最後の晩餐-」について紹介したいと思います。

あらすじ

物語の舞台は平安末期の治承四1180年。

「平家に非ずんば人に非ず」とまで謳われた平家一門の権勢にも陰りが生じ、「以仁王(もちひとおう)の乱」をはじめ、各地に乱世の風雲が立ちこめていた時代。

大番役(警護役)として京都に赴任していた鎌倉一族の棟梁・大庭平三郎景親(おおばの へいざぶろうかげちか)は、伊豆国(現:静岡県伊豆半島)で謀叛を起こした源次郎左衛門有綱(みなもとの じろうざゑもんありつな)の討伐を拝命。

景親は、至急本拠地である相模国(現:神奈川県)に帰って鎌倉一族を招集しましたが、当の有綱は、伊豆の流罪人であった源頼朝(みなもとの よりとも)の元へ逃げ込んでしまいます。

相模国(現:神奈川県)における治承四1180年当時の勢力図。赤が鎌倉一族、肥沃な土地(大庭御厨一帯)を東西の敵対勢力(黒丸)が虎視眈々と狙っている(原作者より許諾済)。

それはやがて兄弟それぞれの野望や思惑、敵対する周辺勢力の利害関係などともからみ合って、景親ら「鎌倉四兄弟」の訣別を招いてしまうのでした……。

「鎌倉四兄弟」のプロフィール

鎌倉一族の祖先・鎌倉権五郎景正(かまくらの ごんごろうかげまさ)の末裔という原作者は「かつて鎌倉の地を拓き、治めてきた祖先たちに対する供養と、子供たちに郷土の歴史を伝え、興味を持ってもらうため、実在した武士のみにこだわって書いた」ということです。

この物語の主人公である「鎌倉四兄弟」は、実際に源平・敵味方に分かれて戦うことになるのですが、それぞれのプロフィールを紹介します。

長男・懐島平太郎景義(ふところじまの へいたろうかげよし)

若くして頼朝公の父・源義朝(みなもとの よしとも)公に仕え、「保元の乱(保元元1156年)」で敵将「鎮西八郎」こと源為朝(みなもとの ためとも)の矢を膝に受けたため、足が不自由となってからは、家督を弟の景親に譲って懐島(現:神奈川県茅ヶ崎市の一部)に隠居する。

ただし、権力への野心を完全には捨て切っておらず、頼朝公の挙兵に乗じて、一発逆転のチャンスを狙っている。

歌川国芳「一勇斎 武者絵 大庭三郎景親 俣野五郎景久」嘉永七1855年

次男・大庭平三郎景親(おおばの へいざぶろうかげちか)

鎌倉一族の棟梁として大庭御厨(おおばのみくりや。現:神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町一帯)を治め、平清盛(たいらの きよもり)公から「東国の後見」として坂東(関東地方)の支配を任されている。

かつて「保元の乱」で窮地に陥った景義を命懸けで救い出すなど、四兄弟の中でも情に篤い性格。大きな度量の一方で、謀略など小細工は苦手。

三男・豊田平次郎景俊(とよだの へいじろうかげとし)

相模国大住郡豊田郷(現:神奈川県平塚市北西部)を治めるため「豊田」を称するが、鎌倉一族の所領でも突出しているため、敵対勢力に囲まれながら、和平交渉や小競り合いで所領の維持に苦心している。

ところで、次男(景親)と三男(景俊)で「三郎」と「次郎」が逆転しているのは「それぞれ母親が違うから」という説もあって、複雑な家庭環境が推察される。

歌川国芳「眞田(佐奈田)市義忠 俣野五郎景久」より。

四男・俣野平五郎景久(またのの へいごろうかげひさ)

相模国鎌倉郡俣野郷(現:神奈川県藤沢市と横浜市の境界地域)を治めたため「俣野」を称しました。

四兄弟一の豪傑、角力(すまい。相撲)の名手で、かつて禁中(朝廷)で催された相撲節会(すまいのせちえ)で三年間無敗を誇ったと言われます。

ちなみに四男なのに「五郎」と呼ばれるのは、四兄弟には妹(波多野義常室)がおり、彼女が四番目に生まれたため、景久は「五番目が男子」という意味で五郎となった、という説もあります。

その他の鎌倉一族

馬込万福寺蔵「梶原景時肖像」明治四十一1908年

四兄弟以外にも鎌倉一族には後に頼朝公の懐刀となる梶原平三景時(かじわらの へいざかげとき)や、かの「越後の龍」上杉謙信の祖先に当たる長尾新六定景(ながおの しんろくさだかげ)など、魅力的な武将が数多く登場しますが、ここでは割愛します。

また、彼らの葛藤や、決断の結果については「興味を持った方が、自分で調べて下さることが、何より彼らへの供養となる」という原作者の意向を酌みたいと思います。

まとめ・郷土史の発掘と再評価

これまでの源平軍記は往々にして頼朝公の視点からのみ物語が進められ、一度は石橋山の戦いで頼朝公を撃破するものの、その後あっさり敗れ去る「序盤の中ボス」くらいの扱いが多かった大庭景親はじめ鎌倉一族。

彼らは代々受け継いできた鎌倉の地を頼朝公に奪われ、頼朝公に味方した一族たちもやがて相模の地から散り散りに去っていきますが、それでも彼らが全力で守ろうと闘い抜いた大切なものは、間違いなく鎌倉の歴史として土地に刻み込まれています。

当時のチラシ(一部)。

演劇の方は30数回の公演をもって休止となりましたが、この物語をきっかけとして多くの脚本が書かれ、演劇を通した人的交流の活性化により、既存活動への触発や、新たな活動も生まれています。

こうした郷土史の発掘・再評価による地域振興の試みが今後より一層活発化し、地元の魅力に気づき、愛着を持ってくれる方が増えることを願っています。

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