追悼・ケーシー高峰さん「全身芸人伝説」ビートたけしも「あの人にはかなわねえ」

日刊大衆

追悼・ケーシー高峰さん「全身芸人伝説」ビートたけしも「あの人にはかなわねえ」

 “医学漫談”で茶の間を爆笑に包み込んだ芸人・ケーシー高峰さんが、4月8日に亡くなった。享年85。数々の演芸番組に出演、俳優としても才能を発揮したケーシーさんの死に、多くのファン、芸能関係者の間に衝撃が走っている――。

『週刊大衆』(双葉社)で約2年、「グラッチェ哉、人生」と題した人気コラムを連載していたケーシーさん。当時の担当編集はこう振り返る。

「毎回、福島県のいわき市にあるご自宅に取材に行くんですが、取材が終わるとケーシー師匠は必ず地元のお寿司屋さんに連れて行ってくれましたね。それも1軒では終わらず、必ずハシゴする。2軒目はクラブに行くことが多く、興が乗ると『そりゃないぜセニョリータ』といった持ち歌を披露してくれました。お店には奥様も必ず同行し、地元の知人や友人も招くので、毎回宴会の趣でしたね」

 店のスタッフにも気を遣い、そこにいる全員が楽しく飲めるようにしていたというケーシーさん。

「誰に対しても偉ぶるところがなく、いつもニコニコしていました。プライベートでもギャグがポンポン飛び出し、宴会がお開きになると必ずポチ袋を出して小遣いをくれました。これまで仕事柄、何人もの芸人さんと接してきましたが、ケーシー師匠は人間的にも一番スケールが大きかったように思います」(担当編集)

 ケーシー高峰を名乗る前は、「坊られい」の芸名でキャバレーやスナックでステージに立っていた。当時を知る関係者は、「ケーシーさんはスベリ知らずだった」と舌を巻く。

「キャバレーなどでの営業は酔客が相手のため、ネタをきちんと見てもらえず、芸人は苦労するものです。それなのに、ケーシーさんだけはウケまくる。だから、漫才師や漫談家の間で尊敬を集めていたんです。ツービート時代に営業で苦労したビートたけしさんも、『キャバレーでもギャンギャン笑いを取っているケーシーさんはスゲーな』と言っていましたからね」(芸能関係者)

 立川談志師匠(故人)も“ケーシーファン”の一人だった。

「談志師匠が癌を患った際、ケーシー師匠と二人でおでん屋に行って飲んだそうです。ケーシー師匠が談志師匠に、『それで、何の病気なのよ?』と聞いたら、談志師匠がおでんだねを箸でひょいとつまみ、『がんもどき』と言ったとか。これにはケーシー師匠も爆笑したと言います」(前同)

■自宅にどっさり積まれた膨大なネタ帳

 前出の週刊大衆担当者が語る。

「東京の月島でもんじゃを食べようとケーシー師匠が言うので、銀座からタクシーを拾ったことがあるんです。そしたら師匠は率先して助手席に乗り込み、シートも倒さず小さくなって『俺はここでいいんだよ』と。僕と女性記者は申し訳なく後部座席に座った記憶があります。それで、皆がタクシーに乗り込むと、師匠は運転手に『近くて悪いんだけど、尖閣諸島まで行って』と(笑)。僕らと会うときは24時間365日“芸人モード”でしたね。当時、すでに80歳を超えていらっしゃったので、凄いのひと言です」

 ケーシーさんの芸人魂は膨大なネタ帳に象徴されたという。

「自宅には大学ノートにメモされたネタ帳がどっさり山積みされていました。リビングには全国紙とスポーツ紙が置かれ、テレビのニュースも欠かさず見ていましたね。“ネタが作れなくなったら芸人は終わり”というのがケーシーさんの考えで、常に世間の動きを勉強していました」(前出の芸能関係者)

 最後に、『週刊大衆』でも披露してもらったケーシーさんのネタの中から特に反響の大きかったものを3つ披露しよう。

「昔は男は結婚するなら処女がいいと言った。そこで当時、流行ったのが処女膜再生手術。ただ今ではお嬢さん方の貞操観念は変わってしまい、手術はすたれてしまった。それでも、日本に処女膜再生手術の名医が一人、現在もご存命です。千葉県の“マクハリ”にいらっしゃいます」

「北朝鮮では男女交際が難しい。だから、ウブなご婦人が多い。殿方が声をかけて肩をちょんと叩いただけでびっくりして“ピョーン”と飛び上がって“イヤ~ン”と驚いてしまう。これを“ピョンヤン”という」

「ご婦人方に注意したいんですが生理中は子宮が非常にデリケートになっており、傷つきやすく炎症を起こしやすいので、性行為は非常に危険です。これを医学的に“入らん(排卵)”と言う」

 以上、グラッチェ! ケーシー高峰さんのご冥福をお祈りします。

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