原辰徳監督・激動の半生とミスター長嶋茂雄との絆

日刊大衆

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「この時期は6月からの交流戦を控え、各チーム気合が入る。観戦には最高の季節です」(専門誌記者)

 4年連続V逸という球団最大の危機を迎えた巨人には、まさに正念場。チームを再建すべく、3度目の指揮を執る“最後の切り札”原辰徳監督も、決死の覚悟で戦っている。

 1974年、原は、実父の原貢監督が率いる東海大相模の野球部に入部。1年生からレギュラーで、甲子園にも4回出場。その実力と甘いマスクは日本中の話題となった。「原フィーバーはすさまじく、地方大会にも多くの女性ファンが駆けつけ、満席になるほどでしたね」(当時を知る元記者)

 名実ともに超高校級だった逸材は、プロ各球団にマークされることになるが、中でもいち早く目をつけていた人物がいた。当時の巨人監督、長嶋茂雄その人だ。

「結果的に原は東海大への進学を決断しますが、すっかり惚れ込んでいたミスターは、最後まで諦めなかった。直談判して口説き落そうと、貢さんとコンタクトを取る方法を探していたそうです」(前同)

 大学進学後も原の評価は上がり続け、80年のドラフト会議前には、一番の目玉選手となっていた。

「この年の春先から、ミスターは“原はいい。彼が入れば、巨人は盤石になる”とよく話していましたね。“背番号3を譲ってもいい”とまで口にしていたとか。原を、自分の後継者のように感じていたのかもしれません」(球界関係者)

 しかし皮肉なことに、長嶋監督は、この年のシーズン終了後に解任。ドラフトでは、1位指名で4球団競合の末、藤田元司新監督が当たりくじを引き当て、原の巨人入りが決定した。

「原は1年目から開幕スタメン。この年、22本塁打をマークして新人王に輝いています。83年には打点王とMVPを獲得。巨人の“4番サード”として、プロでも、その実力を証明しました」(スポーツ紙デスク)

 “若大将”の愛称で、巨人の看板選手となった原。だが、彼のプロ野球人生は順風満帆には進まなかった。

 86年9月の対広島戦。剛腕・津田恒実投手の直球をファウルした際、左手首を骨折。このケガが原の選手生命を一変させてしまう。「原は典型的な引っ張り型のバッター。しかし骨折の影響で、バットが全力で振り切れなくなり、思い通りの打撃ができなくなってしまったそうです。後年、本人も“あれがなければ……”と無念さを口にしていました」(ベテラン記者)

 そんな原を追い立てるかのように、今度は“巨人の4番という伝統”がのしかかっていく。「3割打っても、30本塁打をマークしても、“チャンスで打てない”などと叩かれ続けた。巨人のスーパースターだけに、周囲は原に、どうしてもONのような活躍を期待してしまう。その重圧は、かなりのものだったはずです」(前同) 

 93年、長嶋氏が巨人の監督に復帰。13年越しで指揮官と選手の関係になった2人だったが、すでに原のピークは過ぎていた。

「ミスター就任前の時点で、守備位置は三塁から外野、一塁と変えられ、4番を外される試合も多くなった。就任後の94年には、FAで落合博満が移籍。かつてはミスターの恋人だった原ですが、もうチームに居場所はなくなっていました」(元巨人担当記者)

 引退後は、監督としての道を歩み始めた原監督の激動の半生。この続きは4月22日発売の『週刊大衆』をチェックしよう。

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