渡辺正行、お笑いの道を進む“きっかけ”になった人物とは?
待たせたなぁ!
どうも、渡辺正行です(笑)。1980年にお笑いトリオ『コント赤信号』のリーダーとしてデビューしてから約40年。本来はメンバーの中でのリーダーだったはずが、今や芸能界にとどまらず、一般の人たちからもリーダーと呼んでもらっている。
冒頭の言葉はコントでよく使っていた決めゼリフなんだけど、そんな俺の連載が今回から、ついにスタートすることになった。だからこその「待たせたなぁ!」でもあるんだよね。
俺が、これまで近くで接してきた芸能人たちの名前を挙げると、三宅裕司さん、立川志の輔さんという大学の落研の先輩方。ビートたけしさん、明石家さんまさん、島田紳助さんといった『オレたちひょうきん族』の共演者の方々。そして、ウッチャンナンチャン、ダチョウ倶楽部、爆笑問題、バナナマン……といった数多くの後輩芸人たち。
曲がりなりにも40年近く見てきたお笑い界の表と裏を、自分の芸人人生を振り返りながら書いていくつもりなので、以後、よろしくお願いします。
さて俺の芸人人生が始まったキッカケは、明治大学に入学し、落語研究会に入ったこと。そこで2年先輩の竹内さん=立川志の輔さんに出会ったことだった。
大学は明治、中央、法政と3校受験して1校しか合格しなかったけど、それが明大だったことも本当にラッキーだった。
「とにかく大学に入って、遊びまくりたい!」73年秋、高校3年生だった俺の頭には、それしかなかった。
高校までずっと剣道漬けで遊ぶ暇なんてなかったから、とにかく楽しい学生生活を送りたかった。東京に出て、都会の若者になりたかったんだ(笑)。
俺が生まれた千葉県夷隅郡(現・いすみ市)は、房総半島の東部に位置していて、田畑ばかりが広がる本当の田舎だった。都会の文化もまったく入ってこないような土地柄だったから、74年の春に上京してからはカルチャーショックの連続。
たとえば、杉並区にある明大和泉キャンパスへの通学には、新宿駅から明大前駅まで京王線に乗って行くんだけど、俺は当初、いつも各駅停車に乗っていた。地元のローカル線、国鉄・木原線(現・いすみ鉄道)は各駅停車が当然だったし、特急や急行に乗るには別の券が必要だと信じて疑わなかったからだ。
それなのに、老若男女問わず、特急や急行に乗る人が多かったから、「うわあ、東京の人って金持ちなんだなあ」と驚いたものだよ(笑)。その後、誰でも乗れると知ったときもまた驚いて、当時の俺は、それぐらい田舎者だったんだ。
入学以降、和泉キャンパス内では数多くのクラブやサークルが新入生の勧誘活動を続けていた。その中に落研の面々もいた。「楽しいよ〜! 落研、楽しいよ〜!」着物姿の彼らはプラカードを持ちながら、大声を上げていた。それを見た瞬間、俺は直感した。「ああ、この人たち……バカが集まって楽しそうだなあ……(笑)」って(笑)。
ところが、なんとなく楽かなと思って大学1年の5月にいざ入ってみると、部員は皆、バカなんかではなく、すごくマジメで、真剣に落語に取り組まなければいけなかった。さらに上下関係もとても厳しかった。「なんだよ! 今までやってきた剣道部のときと同じじゃないか。やべえなあ……」そう痛感した俺は、1か月後にはもう辞めることを考えていた。
もともと落語もちゃんと観たこともなく、落語家も林家三平、立川談志、月の家円鏡くらいしか知らなかったし。
ーー現在発売中の『週刊大衆』5月6日号では、このあと立川志の輔に出会ったことで落語に本格的にのめり込んでいく渡辺正行の様子がつづられる。お笑い界の重鎮・リーダーの原点を見届けよう。