三蔵法師は人の名前ではなかった。日本唯一の三蔵法師「霊仙(れいせん)」 (2/2ページ)

心に残る家族葬



般若がサンスクリット語で音読し、霊仙が漢語に訳していく作業です。般若と霊仙の努力により、無事に完訳。その功績により般若と共に「三蔵」の称号を贈られました。更に、皇室の仏事を務める内共奉十禅師(ないぐぶじゅうぜん)の一人として国家鎮護という重要な役割を果たすことになりました。

■霊仙三蔵の生涯

数々の功績を残していった霊仙三蔵。しかし彼の心は望郷の念が取れる事は無く、自分が学んだものを日本に伝えるべく憲宗皇帝に帰国を度々願い出ますが、その学識、知恵の全てが国外に出ることを恐れた皇帝はその帰国を許しませんでした。

しかし唐朝の勢力が衰えてきた八百二十年に憲宗皇帝が暗殺され、その結果反仏教派の力が強くなっていきました。霊仙三蔵はいつしか追われる身となり身をひそめるように、海に近い山海省、五台山に住むようになりました。そしてこの地で日本との交易を行い、日本の匂いを感じながら自分の持っている全てを日本に伝えるべく、様々な努力を始めました。

霊仙三蔵は嵯峨天皇とのやり取りで、かつて般若のもとで共に学び帰国した空海のその後の活躍を知りました。自分がもし帰国が叶わぬのなら自分が持っているものを日本に伝えるべく、法具と教えを弟子に託しました。その予感は不幸にも当たり、八百二十七年、何者かの手により霊泉は毒殺され、享年67才の生涯を閉じました。

■霊仙の遺言

その後、空海の弟子である僧常暁が不思議な因縁により霊仙が弟子に託した「教え」と「法具」を持ち帰ることになりました。霊仙は弟子に「日本から層が来たら渡せ」という遺言を残していたのです。

常暁は承和六年(839)に帰国し、霊仙三蔵の遺言どおり、秘宝を宮中に伝えました。それ以来宮中では国難にあった時、鎮護国家の秘宝として「大元師法」が行われ、それは昭和二十年、太平洋戦争末期まで続きました。

日本に「神風」を起こし数々の争いを沈め日本を救ってきた「大元師法」を日本に伝えたのは、空海、最澄と共に唐に渡り、日本人ただ一人の三蔵法師になった霊仙三蔵なのです。

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