「聖なるもの」の喪失が教える「価値あるもの」 (3/3ページ)

心に残る家族葬



■イスラム過激派による文化破壊

世界中からノートルダム大聖堂復興への援助の手が差し伸べられているが、これと対称的な出来事がイスラム過激派による文化破壊である。2001年、アフガニスタン・バーミヤンにある遺跡群の大仏像がイスラム過激派組織「タリバン」によって破壊された。国連や国際社会は制止を呼びかけ、特に日本政府は熱心に交渉したが、その甲斐なく破壊は実行された。

さらに2015年、イスラム過激派「イスラム国」は占領したイラク・モスルの博物館で、貴重な文化財を次々と破壊、さらに、歴史あるイラクやシリアの遺跡群の破壊を繰り返した。世論はこれを許しがたい暴挙であると非難した。当然だろう。しかし筆者はこれを単純に暴挙であるとは言えないと考える。イスラム教の開祖・ムハンマドはメッカに入城した際全ての偶像を破壊し神(アッラー)の栄光を称えた。バーミヤンの破壊においてもタリバンは神の栄光を称えている。我々は彼らを「過激派」と言うが、彼らは彼らの言う「最後の預言者」の行為を踏襲しているだけだ。むしろ、これを批判する他のイスラム諸国の方がイスラムとしてはおかしいとさえいえる。

世論の批判に対し過激派は言う。「預言者ムハンマドは偶像を破壊するよう命じた。こうした破壊は神が命じているため数億ドルの価値があろうと関係ない」と。彼らもまた形は違えども、上田の言う「お金では計り知れない、何か変わらない価値」のために動いたのだ。非イスラム文化圏に育った筆者は文化破壊という行為を容認する気には到底なれない。あえて言うなら「悲しい」行為であると表現する他ない。

■墓や位牌に宿る思い

日本人がこうした意味での「悲しみ」を理解できる、もっとも近い「お金では計り知れない」「聖なる存在」は、墓や位牌、仏壇など、愛する家族とのつながりを感じさせるものではないだろうか。自分の家の墓が心無い者に荒らされたり、災害で崩れていたりしたなら、自分自身が傷つけられた思いになるだろう。金を失うのは惜しい、物を壊されれば憤る。しかし、墓や位牌に宿る思いは、「お金では計り知れない、何か変わらない価値」であり、それが失った時、我々は「惜しむ」より「怒る」より「悲しみ」に身を浸すことになるだろう。

ノートルダム大聖堂の火災もイスラム過激派による文化破壊も共に悲劇であるには違いない。しかし、金やモノでは計れない本当に価値あるものとは何かであることや、人間という存在がいかに悲しい存在であるかを問いかける出来事でもあったのだ。

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