なぜこんなところに!?小さな石祠が物語る「日本と鎌倉の激動期」を紹介 (2/5ページ)
この両社は成福寺の鬼門(北東)と裏鬼門(南西)を守護するために創建されたものと考えられ、こうしたところにも神仏習合(神道と仏教の融合)の名残が見られます。
菊池容斎『前賢故実』より、吾妻社の御祭神・弟橘媛命。明治時代
その弁天社から道路に沿って少し進むと、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと。倭建命の妃)をお祀りする吾妻(あづま)社が鎮座していましたが、現在は小袋谷町内会の公会堂となっています。
ちなみに、この第一鎌倉踏切から南北に細くのびている道路ですが、これでも古くからの歴史ある街道で、かつて鎌倉に幕府があったころ、御家人たちが参府(さんぷ。幕府に参ること)のために通った道と伝えられています。
富国強兵!鎌倉をぶった切った「海軍鉄道」さて、この鎌倉古道に沿って鎮座していた三社に変化が訪れたのは明治時代。
当時の日本政府が推し進めていた富国強兵政策の一環として「海軍力の増強」が急務となっており、軍港として発展していた横須賀と東京を結ぶため、東海道線の大船駅から横須賀にかけて鉄道(現:JR横須賀線)が敷かれる事となりました。