なぜこんなところに!?小さな石祠が物語る「日本と鎌倉の激動期」を紹介

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なぜこんなところに!?小さな石祠が物語る「日本と鎌倉の激動期」を紹介

「第一鎌倉踏切(鎌倉市小袋谷)」……JR横須賀線の大船駅~北鎌倉駅間にある何の変哲もない踏切ですが、その袂には小さな石祠(ほこら)が遺されています。

第一鎌倉踏切のたもとに鎮座する石祠。なぜ線路に向いているのでしょうか?

この祠には学問に御利益がある弁天(べんてん)様がお祀りされていますが、線路と道路のカドになって窮屈そうです。

いかにも不自然な感じですが、そこには日本の近代化が大きく影響を及ぼしており、今回はこちらの弁天様を中心に、鎌倉における明治・大正史の一部を紹介したいと思います。

むかし昔、三つの神社がありまして……

その前に、まずこの辺り(鎌倉市小袋谷)の地図を見ておくと、話が理解しやすいと思います。

鎌倉市小袋谷とその周辺地図。「鹿島神社」とあるのは誤り

地図の概ね中央から上寄り、弁天社跡とあるのが現在の第一鎌倉踏切、その北東に成福寺(じょうふくじ)を挟んだ亀甲山(きっこうさんorかめのこやま)の上に、応神天皇(おうじんてんのう)をお祀りする八幡社(現:厳島神社)が鎮座していました。

この両社は成福寺の鬼門(北東)と裏鬼門(南西)を守護するために創建されたものと考えられ、こうしたところにも神仏習合(神道と仏教の融合)の名残が見られます。

菊池容斎『前賢故実』より、吾妻社の御祭神・弟橘媛命。明治時代

その弁天社から道路に沿って少し進むと、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと。倭建命の妃)をお祀りする吾妻(あづま)社が鎮座していましたが、現在は小袋谷町内会の公会堂となっています。

ちなみに、この第一鎌倉踏切から南北に細くのびている道路ですが、これでも古くからの歴史ある街道で、かつて鎌倉に幕府があったころ、御家人たちが参府(さんぷ。幕府に参ること)のために通った道と伝えられています。

富国強兵!鎌倉をぶった切った「海軍鉄道」

さて、この鎌倉古道に沿って鎮座していた三社に変化が訪れたのは明治時代。

当時の日本政府が推し進めていた富国強兵政策の一環として「海軍力の増強」が急務となっており、軍港として発展していた横須賀と東京を結ぶため、東海道線の大船駅から横須賀にかけて鉄道(現:JR横須賀線)が敷かれる事となりました。

鉄道こそ、近代国家の生命線(イメージ)

その計画では(現代の地図からもわかる通り)線路が弁天社の境内をぶった切っており、当然ながら小袋谷村民は反対するものの、近代国家としての生き残りを賭けて欧米列強や清国とわたり合わねばならない政府や海軍による用地買収はかなり強引であったらしく、弁天社は取り壊されてしまいました。

村民たちは仕方なく弁天様を近くの吾妻社へ合祀(ごうし。一つの神社に複数柱の神様を合わせてお祀りすること)したのですが、日本政府はこの鉄道で各地から横須賀へと人材や物資を注入して海軍力を増強。やがて日清(明治二七1894~同二八1895年)・日露(明治三七1904~同三八1905年)の両戦役における勝利をもたらすことになるのでした。

まさに司馬遼太郎『坂の上の雲』の世界、その舞台裏を支えたのです。

JR横須賀線。線路の左右とも円覚寺の境内。見事にぶった切られている

ちなみに、この線路によって鎌倉五山の第二位である円覚寺(えんがくじ)の境内も見事にぶった切られており、当時の人々がいかに海軍力を求め、近代国家としての生き残りに必死であったかが偲ばれます。

関東大震災~そして現代へ

さて、もう少し時代は下って大正十二1923年9月1日。

11時58分32秒ごろ、後世に伝わる「関東大震災」が発生。ここ鎌倉でも甚大な被害に遭い、吾妻社も八幡社もことごとく倒壊してしまいました。

その後の昭和二1927年3月に再建、三社とも亀甲山の上(八幡社跡)に合祀されたのですが、社号(しゃごう。神社の名前)は何故か「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」と、弁天様がリーダーになっています。

亀甲山の八幡社跡に鎮座する厳島神社(鎌倉市小袋谷)

元は八幡社だったのだから八幡社に合祀する形で再建するのかと思いきや、それまで吾妻社に身を寄せられていた弁天様がリーダーに返り咲いたというのが実に興味深いですが、神様同士の力関係って、一体どうなっているのでしょうね。

そして現代、踏切の袂に生じた「境内の切れっ端(海軍が買収しなかった部分)」に、往時を偲ぶ地元住民が石祠を建て、弁天様がお祀りされたのでした。

石祠の創建時期は不詳ながら、恐らく関東大震災以後~厳島神社の再建前後(昭和初期)と考えられます。

弁天様は今でも地元住民に親しまれ、亀甲山の上に遷座(せんざ。神様の移住)された弁天様たちと共に、小袋谷の人々を見守られています。

終わりに

以上、とてもローカルな昔話を紹介させて頂きましたが、ここで言いたいのは「歴史とは、遠く隔絶された世界ではなく、自分たちと同じこの世界に生きていた人々の思い出であり、土地の記憶である」ことを、身近に遺された断片、例えば地名とか風習とか文化財とか、そういうものに感じて欲しいのです。

先人たちが紡ぎ続けてきた歴史の息吹を感じ、皆さんそれぞれの故郷に愛情を持って頂けたら、これほど嬉しいことはありません。

※参考文献:
鎌倉市教育委員会編『第7集 としより の はなし』平成二1990年9月1日
鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 社寺編』昭和五十四1979年10月31日

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