徳光和夫「我が愛しの長嶋茂雄とジャイアント馬場」

4月2日、阪神を東京ドームに迎えた巨人軍に、ホーム開幕戦を祝うサプライズがあった。長期入院を経てリハビリ中だった長嶋茂雄終身名誉監督が、球場を激励に訪れたのだ。“ミスタープロ野球”として、今なおファンを魅了し続ける長嶋氏と、力道山の弟子として全日本プロレスを興し、長らくマット界を牽引してきたジャイアント馬場氏(故人)。両者の魅力に強く魅かれ、人生を導かれたと語るフリーアナウンサーの徳光和夫さんに、秘話を語ってもらった。
――4月2日、10か月ぶりに長嶋さんが公の場に登場しましたが、徳光さんは近況をご存じですか?
「実は入院したことも知らなかったんです。それまでは2か月に1度、6〜8人くらいで長嶋さんを囲んだ食事会をやっていたんです。それで、“そろそろ食事会か”というタイミングなのに連絡が来ないことがあった。ご多忙なのだろうくらいに思っていたけど、4か月たっても連絡が来ないため、幹事の方に聞いたところ、“体調を崩して入院しているようだ”と」
――長嶋さんが今季の巨人をどう見ているのか、気になりますね。
「以前から“丸(佳浩)はいい選手だ”と、しきりにおっしゃっていました。“僕と同郷の千葉だから、(ドラフト時に)取りにいけたのに”と残念がっていましたからね。ですから、現在の活躍を誰よりも喜んでいるんじゃないでしょうか」
――丸は長嶋さんが電撃視察した日、ホームランを打つなど大活躍でしたね。
「ええ。長嶋さんもにっこり微笑んでいましたよね」
――長嶋さんといえば、数々の伝説的なエピソードがありますが、交流のある徳光さんが知る、とっておきの秘話を教えてください。
「長嶋さんは長らく、少年野球の指導をライフワークにされていますよね。ただ、少年たちは長嶋茂雄の偉大さを知らないわけで、“ヒゲの濃いおじさんに教えてもらった”くらいの記憶になってしまう(笑)。ただ長嶋さんはツボを心得ているから、“〇〇くん頑張れよ”とか、背番号の上に書かれた名前を呼んであげるんですよ。子どもたちは家に帰って“長嶋さんに名前を呼ばれた”と言うと、親は“ウチの子どもだけ名前で呼ばれたんじゃないか。野球の素質があるはず”と感激するんですよ(笑)」
――ミスター一流の人たらし術ですね。
「ええ。オーストラリアでも、在豪邦人の少年に野球を教えたことがありました。そのチームには赤井電機がスポンサーについていたので、背番号の上に『AKAI』と書いてあるんですよ。長嶋さんはいつもと変わらず声をかけるんですが、“赤井君、いいよ〜”“赤井君、ナイス”と。それでしばらくしたら、僕のところに来て耳元で、“徳さん、オーストラリアは赤井君が多いんだね”と(笑)」
――電話番号をめぐる話もありますよね。
「あれは、宮崎キャンプのときでしたね。応接室で長嶋さんから“知人の結婚式の司会を頼まれてくれないか”と言われたんで、“喜んで引き受けます”と答えたんです。で、長嶋さんが番号をメモに書いて渡してくれたんですけど、ホテルに戻ってその電話番号にかけてもつながらない。よく見たら一桁足りないみたいなんです。それで“もしかしたら”と思って、翌日球場の応接室に戻ってみたら、テーブルの端に末尾の『9』が書かれていました。メモ書きがはみ出したんでしょうね(笑)」
――立教大の学生時代に、「I live in Tokyo」を過去形にしなさい」という問題に、長嶋さんが「I live in EDO(江戸)」と答えたという逸話もありますね(笑)。
「長嶋さんに聞いたら笑わずに、“あ〜、齋藤教授が出したテストですね”とおっしゃったので、本当のエピソードなんでしょうね」
■ギャグセンスも一流
――国民栄誉賞を受賞した長嶋さんに「他にほしい栄誉はありますか?」と聞いたら、「世界遺産」と答えたという話もありますが?
「その話は嘘だと思います(笑)。他にも眉唾ものの話がありまして。V9時代に優勝旅行としてパリに行ったときのエピソードなんですけど、エールフランス航空の機内でキャビンアテンダントが“何か飲み物はいりますか?”と聞くと、川上哲治さんが“コーヒー、プリーズ”と答えて、続けて王貞治さんが“ミー、トゥー”と言ったら、最後に長嶋さんが“ミー、スリー”と言ったという(笑)。これも真偽が怪しいんです。それと、長嶋さんから笑わせようとしているケースもありますから」
――長嶋さん持ち前のサービス精神ですね。
「そうそう。熱烈なファンでもあるクライアントの方の“息子の結婚式で乾杯の挨拶をしていただきたい”というお願いを、長嶋さんがOKしたときの話もあります。長嶋さんは当日になって体調を崩してしまいましたが、律儀な方だからタキシードを着て会場まで行ってクライアントの方にお詫びして帰られたんですよ。1か月後、立教大学野球部OBの会合に長嶋さんが見えられたので、私が“あの日は体調を崩されて大変でしたね”と聞いたら、“いや〜、熱が出ちゃってね。3割7分8厘”と答えられたんですよ(笑)。これは、私を笑わせようとした発言だと思います。そういうお茶目な一面もありますね」
――ギャグセンスも一流なんですね。
「監督時代、新聞記者にシメサバをプレゼントしたことがあったんです。記者がお礼を言ったら、長嶋さんが“サバってどういう字だったっけ?”と聞いてきたので、記者がメモに『鯖』と書くと、“お〜、魚偏にブルー”と言ったそうですが、これも長嶋さんのサービス精神だと思うんです。自らネタを振っていますからね(笑)」
――周囲を楽しませようと意識しているんですね。
「長嶋さんには“長嶋茂雄でいなければいけない”という美学があるんですよ。人を楽しませる発言もその一つですし、ユニフォームを脱いだ後もランニングや腹筋を欠かさず、現役時代の体型を維持するように努めていました。監督として、日本一になって胴上げされた2000年の写真を見てください。宙に浮かんだ瞬間、長嶋さんは腹筋を締めて足を上げて、体全体をV字にしているんですよ。こんな監督は長嶋さんくらいだと思います。“アスリートかくあるべし”という美学なんでしょうね。脳梗塞で倒れた後も、一時的に太ったものの“このまま世間に出たら長嶋茂雄じゃない”と、体型を戻してから表舞台に出られたわけです」
――常に「長嶋茂雄」を貫こうとしていると。
「間違いないですね!」
■球史に残る「天覧試合ホームラン」
――そうそう、長嶋さんと言えば、球史に残る「天覧試合ホームラン(1959年6月25日)」ですよね。
「長嶋さんの傘寿のパーティで、急遽、司会を言い渡され、インタビューをすることになりまして。まず、“目を閉じて、これまでの野球人生を振り返って浮かんだ試合はなんですか?”と聞いところ、“天覧試合でのホームランだ”と。阪神・村山実のインコースを狙って打ったら、レフトスタンドに入るんですが、長嶋さんは、“もう天皇陛下は帰られている時間かもしれない”と思ったそうですね。陛下は9時15分まで観戦してお帰りになる予定だったわけです。で、長嶋さんが打席に入ったのが9時12分。それで長嶋さんは、二塁から三塁へと走るときに、不敬と思いながらも我慢できずに顔を上げてバックネット裏の貴賓席を見たら、陛下が身を乗り出して観ていたそうで、そのときに“親孝行できた!”と感じたそうです」
――凄い話ですね! 徳光さんにとって長嶋さんは、どんな存在ですか?
「長嶋さんと同じ時代に生きていなかったら、今日の自分はいないんですよ。高校2年生のときに観た慶立戦で、当時の大学野球新記録である8号ホームランを放って三塁ベースを小躍りして回る長嶋さんを観て、“この人の後輩になりたい”と思ったんです。その後、補欠合格ながら立教大学に入ったことが、人生の出発点ですから。日本テレビ入社1年半で、先輩から“ミスターに憧れて立教大学に入って、日本テレビのアナウンサーになった徳光”と紹介されたとき、長嶋さんの“そう、頑張ってね!”というハイトーンボイスは、いまだに忘れられないですよ」
――そうした“長嶋愛”が、1980年に長嶋さんが巨人の監督を辞めたときの、徳光さんの名スピーチにつながったわけですね。
「僕は『ズームイン!!朝!』の司会をしていたんですけど、プロデューサーから“15分あげるから長嶋さんのことを語ってほしい”と言われまして、 “これは辞任ではなく解任だ。今後、読売新聞は読まない。報知新聞はとらない”とオンエアで宣言したんです。長嶋さんは私がクビを懸けて話していると思ったらしく、後日食事に誘っていただいて、“何かあれば力になるから”と言っていただいたんです。それから、交流させていただくようになったんですけど、“親しき中にも礼儀あり”という言葉を胸におつきあいをさせていただいています」
■プロレス中継に回されてアナウンサーを辞めようかと
――ジャイアント馬場さんについても、お聞きしたいです。
「日本テレビ入社後、長嶋さんの一挙手一投足を実況すること以外は考えていませんでしたが、プロレス中継に回されてしまったんです。そのときは、アナウンサーを辞めようかと思いました。そんな私にプロレスの魅力を気づかせてくれたのが、馬場さんでした。馬場さんは話すことの一つ一つに哲学を感じさせるんですよ。彼は歴史小説を乱読していまして、よく世間で話題になっている人を歴史上の人物に置き換えて話していたことを覚えています。また、馬場さんには“馬賊になって満蒙の地を駆けめぐりたい”という夢があったんです。私が“馬に乗れないでしょう”と言うと、“そうだよな”と笑っていましたけどね(笑)」
――冗談を言い合える仲になったんですね。
「当時は試合が終わると、吉村道明さんなんかは若い衆を連れて飲みに行って、“今日は流血したから”と生レバーを3キロ食べるんですよ。一方、よく麻雀を打っていましたね。私もご一緒したんですが、昔は手積みなので普通は両手に6牌ずつ持って間に5牌を挟むんです。ただ、馬場さんはパッと持つと間に牌が1つしかない(笑)。非常に堅実な麻雀を打たれて、負けることは少なかったですね」
――馬場さんは「石橋を叩いて渡る」性格として知られていました。
「全日本プロレスの経営も堅実でした。アメリカのマット界でも、優秀なプロモーターとして名前を轟かせていたんです。その理由の一つが、外国人選手のギャラが良かったことなんですけど、あるシリーズでブッチャーが度を超したギャラアップを要求したことがあるんです。すると、馬場さんは急遽、参加外国人選手を一人追加しました。その男はゴードン・ネルソンと言いまして、彼はカール・ゴッチのようにセメント(※注=真剣勝負のこと)が強く、対戦相手から敬遠されているレスラーでした。馬場さんはテレビ中継のない地方の会場で、ブッチャーにネルソンをブツけるわけですよ。そこでネルソンが、“ボスにギャラアップを要求したらしいな”と言いながら関節を外そうとする。ブッチャーが“ギャラアップは諦める”と言うと、ネルソンはあっさりフォール負けするんです。私たちはネルソンみたいなレスラーを“殺し屋”と呼んでいましたが、馬場さんは、そんな男を呼ぶルートも持っていたんです」
――アメとムチを使い分けるやり手の経営者ですね。
「馬場さんは“大男総身に知恵が回りかね”とは、まったく逆の人でした。総身、これ知恵だらけ。僕は馬場さんから、“親しき中にも礼儀あり”の心得を教えていただいたんです」
――それが、長嶋さんとの関係にも生きたと。
「そういうことです。長嶋さんに出会ったことでアナウンサーになれて、馬場さんがいたからアナウンサーを続けることができた。私にとってお二人は、かけがえのない恩人なんです」
――貴重なお話をありがとうございました。
とくみつ・かずお 1941年3月10日生、78歳。1963年、日本テレビ入社。数多くの番組を担当して活躍。89年、フリー転身。フリーアナウンサー、タレント、司会者として活躍中。プロ野球、プロレスに造詣が深い。『徳光和夫の週刊ジャイアンツ』(日テレG+、毎週月曜20:00~21:30生放送)、『徳光和夫のプロレス自慢できる話』(日テレG+、不定期放送)に注目!!