未開の地も多かった北海道を開拓!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その2

Japaaan

未開の地も多かった北海道を開拓!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その2

前回に引き続き、江戸時代後期の船乗り高田屋嘉兵衛についてご紹介します。

江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

彼は北海道箱館(現在の函館市)の発展、択捉島の開拓に大きく貢献したほか、後年には数奇な運命から、当時関係悪化していた日本とロシアの架け橋となった人物です。

「高田屋」ブランド確立!

兄弟6人で廻船問屋「高田屋」を始めた翌年寛政8年(1796)、嘉兵衛は27歳にして大きな夢を叶えます。北前船の辰悦丸(しんえつまる)を腕利きの船職人に頼んでオーダーメイドしたのです。

辰悦丸は当時最大級の千五百石積みで、積荷も嘉兵衛が目利きした良質の商品ばかりが豊富に積まれていました。そのため「高田屋」ブランドは安心安全の呼び声高く、後には辰悦丸が港に姿を見せるだけで土地の人々が喜んで集まるようになるのです。

箱館に進出

辰悦丸を手に入れた嘉兵衛は、高田屋の拠点として北海道の箱館(現在の函館市)に目をつけます。当時海運業は既に盛んで、本州では同業者が多数競合し嘉兵衛ら高田屋の入る余地はなかった一方、北海道は未開の地も多く、中でも箱館は天然の良港であるのにほとんど誰も手をつけていなかったのです。

人との繋がりを大切にする嘉兵衛は箱館の有力商人の協力を得て、寛政10年(1798)に箱館に支店を出します。以後高田屋は成功してどんどん拡大、箱館自体も発展していくのでした。

幕府の択捉島開拓計画に参加

寛政11年(1799)、東蝦夷地を直轄化した幕府は、当時未開だった択捉島の開拓計画に乗り出そうとしますが、択捉島への航路は荒波と濃霧の危険な海峡を越えなければならず、幾つもの船が遭難した難所でした。

そこで幕府の役人が目をつけたのが、航海技術の確かさで有名な嘉兵衛でした。嘉兵衛は命の危険よりも夢とロマンの溢れる「未知の世界の開拓」に心を動かし、本業の高田屋の事は弟に任せて参加を決意します。

択捉島に渡海成功!

潮流をよむのが得意な嘉兵衛は、危険な最短距離ではなく安全な遠回りの航路を開拓し、無事に渡海に成功します。そしてその航路で択捉島に物資輸送が可能になりました。

当初択捉島にいたアイヌの人々は非常に貧しい生活を送っていましたが、嘉兵衛が彼らに漁を教え、17の漁場を開いた事で、徐々に豊かな島に変わってゆきました。

この成功が認められた嘉兵衛は、享和元年(1801)、正式に幕府から蝦夷地定雇船頭(幕府の船を造船、運用管理する役人)に任じられ、三人扶持、手当27両を与えられたほか、苗字帯刀を許されます。

参考文献:生田美智子「只天下のためを存おり候 高田屋嘉兵衛 」ミネルヴァ書房

高田屋 嘉兵衛

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「未開の地も多かった北海道を開拓!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その2」のページです。デイリーニュースオンラインは、高田屋嘉兵衛江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る