人質の身でありながら事件解決に尽力!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その3

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人質の身でありながら事件解決に尽力!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その3

前回に引き続き、江戸時代後期の船乗り高田屋嘉兵衛についてご紹介します。

江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

未開の地も多かった北海道を開拓!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その2

彼は北海道箱館(現在の函館市)の発展、択捉島の開拓に大きく貢献したほか、後年には数奇な運命から、当時関係悪化していた日本とロシアの架け橋となった人物です。

嘉兵衛、ゴローニン事件に巻き込まれる

嘉兵衛が北海道の箱館周辺で活躍する間、ロシアと日本の関係悪化が深刻になっていました。たびたび日本を訪れて通商を求めるロシアに対し、鎖国中の日本が頑なに拒否し続けた結果、怒ったロシアが択捉島や樺太に攻撃を加えたのです。

日本はその報復として、その後日本にやってきたロシア船ディアナ号の艦長ゴローニン他数名を捕縛します。捕まらなかったディアナ号の副艦長リゴルドは慌ててロシアに帰り、この「ゴローニン事件」を国に報告。文化7年(1810)、リゴルドは日本と交渉するため国後島沖で日本船を捕らえて乗組員を人質にしましたが、なんとその人質とは、今までご紹介してきた高田屋嘉兵衛だったのです!

ロシアと日本の間に立って交渉

ロシアへ連れていかれた嘉兵衛は良い待遇を受け、嘉兵衛からも正月に日本酒を振る舞うなどしてリゴルドらとの相互理解を深めます。文化10年(1813)、嘉兵衛とリコルドらはようやく日露交渉のために船で国後島へ向かいます。

日露間の文書のやりとりを、少しずつロシア語を学んだ嘉兵衛が間に立って取り持ち、両国のわだかまりを解いた事でようやくゴローニンらは解放されました。そしてまた嘉兵衛も日本に還る事ができたのです。嘉兵衛の尽力があってようやく、ゴローニン事件は解決したのでした。

故郷・淡路島に尽くした余生

日本に戻った嘉兵衛はしばらく箱館に暮らしましたが、老年となった嘉兵衛は体調が芳しくなく、文政元年(1818)に生まれ育った故郷・淡路島に帰りました。嘉兵衛にとって淡路島は少年期に過酷ないじめを受けた苦い記憶の残る土地でしたが、彼は淡路島のために私財を投じて灌漑用水工事や港の整備に尽力しました。彼は淡路島の沖いっぱいに咲く黄色い菜の花の美しさが大好きで、どうしても嫌いにはなれなかったのです。

文政10年(1827)、徳島藩主に功績を称えられた嘉兵衛は、直後に体調が悪化し59歳の生涯を終えました。商売に関してもゴローニン事件に関しても、人徳によって人の心を動かし、成功を導き出し続けた生涯でした。

参考文献:生田美智子「只天下のためを存おり候 高田屋嘉兵衛 」ミネルヴァ書房

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