そこまで過酷ではなかった?徳川家康のあまり知られていない人質時代を紹介

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そこまで過酷ではなかった?徳川家康のあまり知られていない人質時代を紹介

徳川家康でイメージできるのが幼い頃、人質だった苦労と経験から忍耐力を身につけ天下を勝ち取った苦労人の印象が強いと思います。

しかし、家康の人質時代は意外と待遇の良い生活を送っていました。

今回は家康のあまり知られていない人質時代をご紹介したいと思います。

狩野探幽画:徳川家康像/Wikipediaより

人質になった理由

天文11年(1543年)に産まれた家康の幼い頃は竹千代と呼ばれていました。

竹千代像/Wikipediaより

その竹千代がなぜ人質になってしまったのかというと家中の分裂が原因でした。

当時、後に徳川家となる松平家は竹千代の祖父松平清康の暗殺によって勢力が衰えていました。竹千代の父、松平広忠の代になると多くの家臣が広忠の元を離れていきました。

松平清康像/Wikipediaより

それを見逃さなかったのが織田信長の父織田信秀で松平家が治める三河国へ侵攻して来ます。

この混乱の中、従う兵も少ない広忠は海道一の弓取りと呼ばれていた今川義元を頼ります。しかし、義元の力を借りるにはそれ相応の対価も必要だったこともあり、広忠は竹千代を人質にすることで力を借りることができました。

織田、今川と転々とした竹千代

天文16年(1547)、6歳の竹千代は今川家へ人質に行く予定でしたが、竹千代を護送していた戸田康光が裏切り信秀の元へ行ってしまいます。康光が裏切ったので竹千代は織田家の人質となってしまいます。

このことに怒った義元は信秀を攻め続けます。そして、天文18年(1549)に安祥城を攻略すると城主であった信長の兄、織田信広を捕虜として拘束します。

落合芳幾画作:今川治部大輔義元/Wikipediaより

義元と信秀は信広と竹千代を交換したことにより、今川の元へ竹千代は人質へ行きます。織田家の元には2年間人質として過ごしており、この間に信長と面識があったのではないかとされています。

そして、父の広忠は同年に亡くなっており、松平家は竹千代が人質になっているので当主不在のまま存続することになります。

竹千代の人質生活

竹千代は今川家で永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで敗北し、19歳で独立するまでの11年の間いました。この間の生活は本当に人質と疑う程、何不自由なく過ごしていました。

尚且つ、竹千代の祖母、華陽院(けよういん)が養育にあたり書道や礼儀作法を教えました。また、義元の軍師であり僧侶、太源雪斎(たいげんせっさい)にも教えを受けており、竹千代に軍略の何たるかを教えたとされています。

雪斎が開寺した臨済寺/Wikipediaより

義元にも竹千代は気にかけられ、弘治元年(1555)に14歳で元服する時には義元から「元」の字を貰い「松平元信」と名を変えています。また義元の姪である築山殿と結婚するなど人質の身でありながら義元に期待をされていたことがわかります。

ここまで今川家には良くしてもらったので桶狭間の戦いで敗れると自害を考えますが、松平家の菩提寺の住職に止められます。そこで考えを改め今川家の人質から独立し、一人の戦国大名として生きていくことを決めたのでした。

最後に

幼少期に共に過ごし厚遇と呼んでもいいくらい手厚く面倒を見てくれた義元は竹千代にとって親代わりの存在だったのだろうと思います。

義元は政略のためにここまで手厚くしたと思いますが、それでも何不自由なく過ごした人質時代は竹千代にとって多くを学べる刺激が強めの時間だったのかなと思います。

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