歴代総理の胆力「山県有朋」(3)国民人気が湧かなかった理由

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歴代総理の胆力「山県有朋」(3)国民人気が湧かなかった理由

 明治維新のときから軍務につき、軍隊の近代化を行って「陸軍の父」と呼ばれた山県有朋だったが、国民人気が湧かなかった点では、歴代総理の中でもトップクラスに入る。

 その理由は、「軍国主義の権化」といった不名誉なレッテルを貼られた一方で、内閣は議会や政党の影響に左右されることなく独自に存在し、動くものであるとする「超然主義」を取り、政党政治を嫌っていたことも大きかった。

 その山県は、都合2次の内閣を率い、それぞれの内閣で十全の権力者ぶりを発揮したが、総理の座をおりたあとも元老として長く圧倒的な権力を保持し続けた。その意味では、昭和の御代で総理大臣となった田中角栄とよく似ていたのだった。

 田中は総理退陣後も100人を超える部下を束ね(田中派)、その後の大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の各政権への影響力を発揮し続けた。政治家として致命的とも思われたロッキード事件という大スキャンダルを抱えながらも影響力を落とさぬことから、「闇将軍」と言われたものだった。その意味では、総理退陣後もまったく怖いものなし、権力者ぶりを発揮し続けた山県は、「元祖・闇将軍」と言ってよかったのだった。

 両者の共通した絶対的リーダーシップ発揮の背景は二つあり、一つは人物観察眼に優れていたことであり、二つはこうして抜擢、登用した部下に十分に働ける場所を与えることで、忠誠心を取りつけていたことにあったと言えた。こうして強力な人脈を保持し続けたことが権力温存、発揮の要因だったということになる。

 また、山県、田中の「闇将軍」スタイルの違いは一点あり、田中が時に情に流される一面を持っていたのに対し、山県は最後まで冷徹ぶりをくずさなかったことがあった。ために退陣後もなお国民から慕われることも多かった田中に対し、山県に対する国民の目は冷ややかだったと言ってよかった。

 一方、政治的にはやりたい放題と言ってよかった山県だったが、家庭的には恵まれたとは言い難かった。3男4女をもうけたが2女以外は早逝、美人の誉れ高かった友子夫人にも先立たれた。その後、親子ほどの年齢差がある貞子夫人をめとり、溺愛したと伝えられている。長い権力闘争の中で、夫人が心のなぐさめということのようであった。

■山県有朋の略歴

天保9年(1838)6月14日長門国(山口県)萩城下の生まれ。松下村塾で学ぶ。奇兵隊軍監として戊辰戦争参加。陸軍卿、西南戦争征討軍参加を経て、参謀本部長兼参議、内務卿。大正11年(1922)2月1日死去。享年83。国葬。

総理大臣歴:第3代1889年12月24日~1891年5月6日、第9代1898年11月8日~1900年10月19日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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