プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「スティーブ・ウィリアムス」日本マットに2つの転機をもたらした“殺人医師” (2/3ページ)

週刊実話

その後に放映されたスピンクス戦も凡戦に終わったことで、多くのファンに“世代交代”を強く印象付ける結果となりました」(同)

 実際に同年暮れのIWGPタッグリーグ戦では、藤波辰爾が猪木から初のフォール勝ち。猪木がトップの座から退いていくのは既定路線であったかもしれないが、ウィリアムス戦はその端緒としてファンに受け止められることとなった。

★全日への移籍が飛躍のきっかけ

 一方、ウィリアムス自身はというと、猪木失神の事態にうまく対処できなかったことから“危険でアドリブの利かない選手”として冷や飯を食わされることになり、その後、新日に参戦してきたクラッシャー・バンバン・ビガロやビッグバン・ベイダーよりも下位の格付けとされてしまう。

 そして1990年2月、新日のドーム大会に選手を貸し出してもらった返礼として、ウィリアムスは全日本プロレスへトレードされることになった。

「当初、全日におけるウィリアムスの扱いは、売り出し中だったテリー・ゴディのパートナー役。2人が組んだ“殺人魚雷コンビ”は最強タッグを連覇しましたが、主役はあくまでもゴディでした」(同)

 だが1993年、ゴディが内臓疾患(実際にはアルコールとステロイド剤の過剰摂取による一時心停止)により長期離脱したことで、ウィリアムスにシングル戦線でのチャンスが巡ってくる。

 三沢光晴の所持する三冠王座への挑戦権を懸けた小橋建太との一騎討ち。このときに放った急角度バックドロップ3連発のインパクトは絶大で、これ以降、全日における危険技の基準となった。言い換えれば、四天王プロレスのベースとなったのが、ウィリアムスのバックドロップだったのだ。

 本人がそのように意識したわけではなかろうが、結果的には“新日の世代交代”と“全日の四天王プロレス勃興”という2つのエポックに、ウィリアムスは大きく関わっているのだ。

 むろん単なる偶然というわけではなく、ウィリアムスにそうなるだけの裏付けがあったことを見すごしてはならない。アマチュア時代には、レスリングで大学選手権4連覇を果たした実力者で、ちなみに“ドクター・デス”の愛称は、その当時につけられたものだ。

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