清原和博、長嶋一茂、松井秀喜…池山隆寛が語る「プロ野球黄金時代」

日刊大衆

写真はイメージです
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 パワフルな打撃、そして華麗な守備でファンを沸かせた燕のレジェンドが、平成の球界を大胆に振り返る!

 1990年代のセ・リーグで黄金時代を築いたヤクルトスワローズ。その中心選手として活躍したのが、池山隆寛氏だ。今回は、球史に残るスタープレーヤーでもあった池山氏に、当時の球界の思い出を語ってもらった。まずは、弱小だったヤクルトを日本一4回という強豪チームへとのし上げた名将・野村克也氏について。池山氏にとって、どんな存在だったのだろう。

池山隆寛(以下、池山)野村さんが監督に就任したのは、僕の7年目のシーズンでした。ユマキャンプでの初めてのミーティング。監督はいったい、どんな野球の話をするんだろうと思っていたら、第一声が「一番大切なことはジジュンである」。初めて聞く言葉で、もう意味が分からないわけです。すると、監督は「耳順(じじゅん)」という字を大きく書いて、「論語の中に『六十にして耳順(みみしたが)う』という言葉がある。孔子は60歳のとき、誰の言葉でも素直に受け入れられるようになったそうだ。だから君たちも私の話をよく聞くように」と、説明してくれた。それがすべての始まりで、そこから「仕事の三大要素とは」みたいな話に続いていきました。それまでのミーティングといえば、サインプレーや作戦の話でしたから驚きましたね。

 プロ野球選手は辞めてからのほうが人生長い! だから社会人としての常識を身につけるべきだと、監督はよく話していました。「監督がホワイトボードに板書したことを書き写すように」と、あらかじめ言われていたので、ミーティングではとにかく必死でメモを取りました。最近、当時使っていたノートを引っ張り出してみたんですが、数えてみたらA4判のノートで500ページ近くもありましたよ(笑)。当時はプライドもあって素直に聞けない部分もありましたけど、今思えば、すごくタメになった。“野村の考え”は、現役を辞めて指導者になってから生きてきましたね。19年の現役生活のうち9年間、野村監督の下で野球をやりましたから、影響を受けているのは間違いない。野球論や知識は、大きな財産になっています。だから引退した後、楽天の監督に就任することになった野村さんから、“バッティングコーチをやってみないか”と声をかけてもらったときは、うれしかったですよ。野村さんの野球は、ひと言で言えば「準備野球」。ミーティングとデータを駆使して、“どうすれば勝てるのか”をチームで徹底することでした。それまでの野球観は一変しましたね。

 ただ、バッティングに関しては、野村監督から「ブンブン丸を封印しろ」と直接、言われたことはなかった。マスコミには言っていたみたいなんで、あれは監督なりのリップサービスだったんじゃないかな(笑)。野村さんは、僕や広澤(克実)さんを直接怒らないんですよ。その代わり、「ああいうバッティングをマネしたらあかんぞ」なんて、他の選手に向かって、僕らに聞こえるような大きな声でボヤく(笑)。間接的にグチグチ言われるわけです。でも振り返ってみると、野村さんなりに、僕らに気を遣ってくれていたのかもしれませんね。

 逆に、面と向かって褒められたのもたった一度だけ。97年の巨人戦で、9回表に決勝ホームランを打ったことがあったんですが、翌日、練習を終えたとき、野村監督に「おい」と声をかけられて、「昨日はよう打ったな」とひと言。褒められたのは結局、これが最初で最後でした。

■巨人軍は最大のライバル

――野村ヤクルトの最大のライバルとして立ちはだかったのは、長嶋茂雄監督率いる巨人軍だ。93年から97年まで、ヤクルトと巨人が交互に優勝。90年代のセ・リーグの中心はこの2球団だった。

池山  当時は、ことあるごとに野村監督から「巨人に勝たないと優勝はない」と言われていました。野村監督と長嶋監督とのライバル関係もあったし、選手のほうも“負けたくない”って、かなり意識していた。ミーティングで綿密に作戦を練って、「どうにかして巨人に勝とう」とチーム一丸となって燃えていましたね。

 ただ、対戦のときは毎回、斎藤(雅樹)さん、槙原(寛己)さん、桑田(真澄)の先発三本柱が投げてくる。いつも、この3人との対決だから、「またかよ、勘弁してくれよ!」って感じでしたね(笑)。

 巨人の三本柱は、本当にすごかった。斎藤さんなんて、全部真っすぐに見えるけど、中には同じところから曲がってくるボールがあるんですから。20勝していたときなんて、まったく手が出なかった。三本柱の中では、桑田が一番やりやすかったかな。コントロールが抜群によかったので、逆に狙い通りに打てたんです。ただ、シュートを覚えてからは、簡単には打たせてくれなくなりましたけどね。

 監督だった長嶋さんとは、あまり接点はなかったんですが、毎年秋に開催されていた東西対抗では、ご一緒していました。そのとき、「(長嶋氏の長男である)一茂君と同い年なんです」とあいさつすると、「そうか、一茂と同じなのか~」と答えてくれる。結局、この同じやりとりを5年間繰り返しました(笑)。

 ヤクルトで一緒だった一茂は、ほんと練習しなかったですね(笑)。僕らも練習嫌いでしたけど、それ以上。パワーはすごかったんですよ。でも、ウエイトトレーニングで、ダンベルを1回上げると「もう、いいや」って帰っちゃう。僕とはグローブを作ってくれる職人さんが一緒だったこともあって、「こんないいグラブなのに、なんで捕れないの?」なんて、からかっていましたね。

■桑田真澄から紹介されて清原和博とよく食事を

――90年代といえば、池山氏以外にも多くのスター選手が登場した「プロ野球の黄金時代」でもあった。中でも、池山氏が特別な思いを抱いた3人の打者について聞いた。

池山  清原(和博)とは、よきライバルで、よき友でした。ウマがあって仲良かったんです。初めて会ったのは、僕が入団して3年目、彼のルーキー年のオフでした。実は、桑田から紹介してもらったんですよ。もともと桑田とは高校時代から知り合いで、名古屋で行われたプロ野球イベントの帰り、新幹線の隣の席で一緒だったんです。東京に着くと、桑田から「今から清原とメシ食うんですけど、一緒にどうですか?」と誘われた。そこで3人でご飯を食べたのが最初でした。そこから、清原とよく食事をするようになったんですが、彼は“どうやって打っているんですか?”なんて熱心に野球のことを聞いてきました。2人で顔を合わせると、もっぱら野球談議で、夜遊びを一緒にしたことはなかったですね。

 落合(博満)さんは、見ているだけですごい打者でした。練習では力を入れず、適当に打っているように見えても、形とポイントは大事にしていた。あるとき、コーチから落合さんの打撃練習のビデオを見せてもらったことがあるんですけど、僕らがマネできないような練習をキッチリこなしていた。練習していないそぶりをしていても、陰ではちゃんと努力している。一流と呼ばれる人のすごさを思い知らされました。

 松井(秀喜)の初ホームランはヤクルト戦でしたね。野村監督がキャッチャーの古田(敦也)に「インコースの真っすぐで勝負しろ」と指令を出した。そしてピッチャーの高津(臣吾)がサイン通りに投げた球を、松井は弾丸ライナーでライトスタンドに突き刺した。それを見て「こりゃ、とんでもないバッターになるな」と、ビックリしたのを覚えていますよ。

――ブンブン丸がしのぎを削ったライバルは、打者だけではない。剛腕投手たちと繰り広げた熱い勝負もまた、野球ファンを釘づけにした。

池山  ピッチャーでは、江川(卓)さんの球が印象深いですね。スピンがすごく効いていて、ストレートが伸び上がってくる。球速表示以上に速く感じました。たとえるなら全盛期の藤川球児、今で言えば、楽天の則本昂大のようなストレートと言ったらいいかな。

  与田(剛)も速かったな。バットに全然当たらなくて、広澤さんと「どうやって打つんだよ」なんて話してました(笑)。

 オールスターで対戦した、野茂(英雄)や伊良部(秀輝)もすごかった。特に野茂は、真剣勝負の場ではなかったからストレート一本だったけど、あれでフォークボールを投げられたら、手も足も出なかったはず。

■女子アナとの出会いは?

――かつては“豪快な夜遊び”もプロ野球選手の魅力の一つであった。池山氏の現役時代は“昭和のニオイ”が残る最後の世代かもしれない。

池山  当時の選手は、夜遊びも全力でしたよ(笑)。僕も広澤さんとつるんで、毎日飲みに行ってました。西武の選手は六本木に通っていたようですが、飲みの場で鉢合わせしたことはないですね。というのも、僕らにとって東京は体を休める場所(笑)。メインは地方でしたから。次の日が雨の予報だからと朝まで飲んで、翌日部屋のカーテン開けたら、カンカン照り。「中止ちゃうんかい!」なんてことも、しょっちゅうありましたよ。飲みすぎた次の日の練習では、ユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで“汗出し”。汗をかいて酒を抜くんですけど、おかげで広澤、池山は、いつも真っ先に練習に出ていました(笑)。

 当時はよく“プロ野球選手は女子アナと出会いがある”と言われてましたが、女子アナなんて全然、縁がなかったですよ。女子アナ合コンは古田たち、僕らはもっぱら“クラブ活動”でしたから(笑)。

――2018年まで楽天のコーチ、2軍監督を務めていた池山氏。今なお現場への熱い思いは健在だ。

池山  多くの人との出会いによって、今の僕があるのは間違いありません。さらに加えて、出会う順番にも恵まれていたと思います。野村さんの前にヤクルトの監督だった関根(潤三)さんは選手の長所を伸ばす方針だったんです。だから細かいことは言われず、僕も結果を恐れないで、ノビノビとプレーすることができた。チームが弱かったから、1軍で早くから出番がもらえたのも大きいですね。経験を積んで、選手としての土台を作ることができたと思います。

 そして一人前になったときに、野村さんと出会って、それまで知らなかった野球を勉強できた。関根さんの楽しむ野球から、野村さんの勝てる野球へ――。本当にいい流れで成長できたんじゃないかと思います。

 もし、プロ入りしてすぐに野村監督だったら、頭と体がついていけたかどうか……。今、僕はユニフォームを着ていませんが、もう一度、指導者としてグラウンドに立ちたい。できれば古巣のヤクルトで、若い選手たちを指導してみたいですね。

いけやま・たかひろ1965年兵庫県生まれ。1983年、ヤクルトに入団すると、走攻守三拍子そろった遊撃手として活躍。豪快なフルスイングから“ブンブン丸”の愛称で呼ばれ、野村監督の下、日本一に4度輝いた「ヤクルト黄金期」を支えた。2002年の引退後は、楽天やヤクルトでコーチを歴任。

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