人見絹枝。スポーツに生き”スポーツに死んだ”女性アスリート「いだてん」第26話振り返り (2/2ページ)
1931年、オリンピックでの快挙から3年後のことです。スポーツ選手として、そして新聞記者として精力的に活動していましたが、3月に病で床に伏してしまいます。過労でした。喀血し、肋膜炎で入院することになります。そこからはわずか数か月の間にみるみる弱り、7月には肺炎を併発。お見舞いに訪れた恩師・二階堂トクヨや共にオリンピックへ行った仲間である織田幹雄らは変りはてた姿に驚いたといいます。
結局そこから快癒することなく、絹枝は8月2日に息を引き取りました。その日は奇しくも、銀メダルを獲得したのと同じ日でした。
後進の育成に力を入れていた絹枝は、自分がスポーツに身をささげたあげく早死にしてしまうことを案じており、こんな言葉を残したといいます。
「わたしが死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ、女の子にスポーツをやらせるのは危険だといわないだろうか」
女子スポーツに対する世間の目はいまだ好意的とはいえませんでした。オリンピック以前から、人見絹枝が矢面に立って功績をあげることで、「これからの女子選手たちには私のような思いをさせないように」と行動で示してきたのです。彼女は最後の最後まで、次代の女子スポーツ選手の行末を想っていました。
絹枝が亡くなったあと、恩師である二階堂トクヨは彼女のそんな思いをくみ取ってか、こんなふうに言ったそうです。「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」と。
絹枝の死後、オリンピックでは新たな女子選手たちが活躍し始めます。絹枝がシマの想いを受け継いで励まされたように、絹枝の活躍に励まされ勇気をもらった女子選手がいたのです。またバトンをつなぐように登場するのは女子水泳選手の前畑秀子。来週また登場しますよ!
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