武家や天台宗のトップにも君臨!鎌倉時代の超人「護良親王」はまさにパーフェクトヒューマン!
鎌倉幕府が崩壊するころの天皇家はこれまで政界に顔を出し政治を牛耳るイメージとは打って変わって鎌倉幕府と戦うために鍛えた武人としてのイメージが強くなっていきました。
その天皇家の中で特に異彩を放つ人物、護良親王(もりよししんのう 又は もりながしんのう)がまさにパーフェクトヒューマンと言っても過言ではないくらい飛び抜けていました。
今回は護良親王がパーフェクトヒューマンたるポイントを皆さまにお伝えします。
護良親王出陣図 Wikipediaより
高貴な血筋延慶元年(1308)に生まれた護良親王は親王と名前がある通り、皇族の生まれです。親は後醍醐天皇であり、当時最もイケイケだった天皇の皇子とあったので性格も後醍醐天皇を凌ぐほどの気性の荒さだったそうです。
後醍醐天皇像/wikipediaより
後醍醐天皇はそれでも聡明な部分がある護良親王を気に入っていましたが、6歳の時に天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に出家させています。
その理由は後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕するにあたって、一勢力の僧兵を組織化することが重要と考えたと言われています。
天台宗のトップへ仏門に入った護良親王は梶井門跡三千院の門跡を継承し、門主となります。護良親王は住処である門室を法勝寺周辺の大塔に置いたので、「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれていました。
嘉暦2年(1327)の20歳になると天台宗の総本山、比叡山延暦寺のトップである天台座主として君臨します。天台座主には元徳元年(1329)にもなり、2回君臨していました。
しかし、天台座主でありながら優先することは鎌倉幕府討幕のための武芸の研鑽でした。これには門徒も護良親王のことを「不思議の門主」と言うくらいでした。
これが後に功を奏し、比叡山の僧兵3000人の組織化に護良親王は成功しています。
僧兵の古写真/wikipediaより
武家のトップにも!護良親王は元弘元年(1331)に起きた元弘の変を機に還俗し、挙兵します。日ごろから鍛えていた武芸を見せるのは今と言わんばかりに護良親王は吉野や高野山など各地を転戦してゲリラ部隊のように鎌倉幕府と2年間戦い続けました。
途中で後醍醐天皇は隠岐へ流されるのですが、その時に護良親王は識見と軍略で反鎌倉幕府勢力をまとめあげ戦い抜いたリーダーとしての一面も持っています。
元弘の変に勝利した後醍醐天皇は念願だった建武の新政を始めます。この新政で護良親王は征夷大将軍に任命され、足利尊氏と対立します。
足利尊氏像/wikipediaより
しかし、尊氏暗殺のために行った辻斬りが護良親王の信頼を地に落してしまい、後醍醐天皇により征夷大将軍と皇位を剥奪されて鎌倉へ幽閉されてしまうのでした。
最後に皇族でありながら、天台座主と征夷大将軍になった護良親王。天台宗と武家のトップを生きているうちに任命されたカリスマ性と武勇誉れ高い働きはまさに日本史史上稀に見るパーフェクトヒューマンだと思いますね。
護良親王日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan