差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】 (2/4ページ)
その期待に応えて見事に合格した重治は当然学年最年少(同級生は1~2歳年上)、体格も小さかったため、よく「チビ」とからかわれたそうですが、もしかしたら、こうした体験も後に差別と闘う原動力となったのかも知れません。
ちなみに、同級生には文学者の中村星湖(なかむら せいこ。本名は将為)や、一級上の先輩には後に首相となる石橋湛山(いしばし たんざん。幼名は省三)がいたそうで、多くの学友と共に青雲の志を培ったことでしょう。
そして明治三十六1903年に17歳で甲府中学校を卒業した重治は、人生の岐路に立つことになります。
当時、日本は日清戦争(明治二十七~八1894~95年)の勝利で獲得した満洲の遼東半島をロシアらの圧力(三国干渉)によって返還させられ、何もできなかった悔しさから「ロシア、討つべし!臥薪嘗胆!(※1)」とリベンジに燃えていました。
強大なロシアに挑む(よう、欧米列強にそそのかされる)日本の軍人。ロシアの足元に満洲・遼東半島が押さえられている。当時の諷刺画。
17歳の健康な青年であれば、真っ先駆けて軍人に志願し、お国のため、打倒ロシアに立ち上がることが評価された時代です(実際、翌明治三十七1904年に日露戦争が勃発しました)。
しかし、重治はもっと学問がしたかったのです。目の前のロシアと戦うことがお国のためなら、学問で身を立てることもまた、間違いなくお国のため。