差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】 (3/4ページ)
欧米文化をよく学び、諸外国の情勢に通じることで、日本の有り様が、そして日本人の目指すべき未来が見えてくる。
そう確信した重治は、その年の8月にアメリカ・シアトルへと旅立ったのでした。
(※1)がしんしょうたん。固い薪(たきぎ)の上で臥し(寝)て身体を痛めつけ、苦い胆(鹿の胆臓。漢方薬)を嘗めることで、悔しさを忘れずリベンジを目指すこと。
差別と偏見を乗り越えて・笠井重治はかく語りきさて、留学のために渡米した重治はシアトル・ブロードウェイハイスクールに編入、ここで弁論術を学びます。
「今後、日本が欧米列強と鎬(しのぎ)を削って生き延びるには、ますます外国との交渉が重要になってくる。弁論こそ、英語を駆使できるようになる近道である」
そう確信して勉学に励んだ重治は、その甲斐あって明治三十九1906年10月、同校の雄弁競争会(ディーべート大会)で最高雄弁賞を勝ち取り、ワシントン州連合大会の代表に選ばれます。
そして臨んだ明治四十1907年5月のワシントン州連合雄弁競争会で、またも最高雄弁賞に輝きましたが、重治の活躍を喜ぶ者ばかりではありませんでした。

ビゴーの諷刺画。欧米の猿真似にいそしむ日本人の様子。
「何だよあいつ、黄色いジャップ(※2)のくせに……ただ猿真似が巧いだけじゃねぇか……」
アヘン戦争(天保十一1840年)以来、半植民地化された祖国からアメリカに移住する清国人(華僑)が増加、その貪欲な勤労姿勢が現地アメリカ人の商売を脅かして反感を買っていました。