差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【後編】

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差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【後編】

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差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】

差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】

17歳で渡米した笠井重治(かさい じゅうじ)は、アメリカで人種差別・排日運動を目の当たりにしたことがキッカケで日米親善・国際協調を志し、政治家として国内外を奔走する日々を送ります。

やがて戦争の影が忍び寄ると、戦争回避のために駆けずり回る重治でしたが、努力の甲斐なくついに大東亜戦争が勃発。

止められぬ戦争の波(イメージ)。

それでも重治は戦争一色の世論に抗い続け、なおも戦争の早期終結・平和回復を訴えたために政界からも追われてしまい、失意の日々を過ごすのでした……。

伴侶の支えで立ち直り、人生最大の大仕事!

そんな重治に、終生の伴侶となるパートナーが現れます。北海道帝国大学の医学博士である葛西(かさい)とも子です。

時は昭和十八1943年、新進気鋭の弁論青年だった重治も早いもので57歳、もう初老と言ってよい歳ですが、心底彼の人柄に惚れたのでしょう。対するとも子の年齢……を調べてはいけません(笑)

「みんな戦争イケイケどんどんだけど、あんなのは新聞やラジオの報道に乗せられているだけ。今に見てなさい。戦争回避の信念に生きているあなたを散々『非国民』だ『売国奴』だなんだと罵っていた連中が、あなたの正しさを思い知る時が必ず来るから

これまでずっと独りで闘い続けてきた重治にとって、とも子の存在、そして彼女と過ごした日々はこの上ない安らぎであったことでしょう。戦後も重治が国家のため、国際平和のために奔走する気力が続いたのは、彼女の献身的な支えがあっての事と思います。

そして迎えた、昭和二十1945年8月15日の敗戦。日本人の多くが絶望感に打ちひしがれる中、重治は日本の未来を諦めませんでした。

多くの日本人が、絶望に打ちひしがれた。

「天皇陛下だけは、どうしてもお守りしなくては!」

中世の大航海時代よりこのかた、西欧列強は有色人種国家を力づくで滅ぼし、その指導者たちを惨たらしく処刑することで見せしめとしてきました。

このままでは、天皇陛下が危ない。もしアメリカが天皇陛下を処刑してしまったら、仇討ちに燃える日本人が戦闘を再開、日本人が殺し尽くされるまで泥沼の戦いが続くでしょう。

当時、多くの日本人は圧倒的な武力差を持つアメリカや連合国軍に対し、なおも抵抗の意志を示していました。

それを制してポツダム宣言を受諾し、日本人に武器を捨てさせたのが、他ならぬ天皇陛下です。もし仮に天皇陛下が「抗戦継続」を命じれば、多くの日本人が喜び勇んで再び武器をとったでしょう。

「……もう二度と、日本を戦場にしてはならない!」

ダグラス・マッカーサー元帥。

そのためには、何としてでも連合国軍最高司令官であるダグラス・マッカーサーに対して天皇陛下の重要性を訴えなければなりません。

当時の日本はアメリカの軍政下におかれており、マッカーサー率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逆らえば、殺されるかも知れない中、重治は文字通り命懸けで訴えました。

この時、重治のみならず多くの心ある者たちが天皇陛下の助命嘆願に奔走し、またマッカーサー自身も天皇陛下の高潔なお人柄に心打たれ、その処刑を求めるアメリカ当局の声を退けたとも言われます。

天皇陛下の御無事を確信した時、重治は人生における最大の仕事を成し遂げた思いがしたことでしょう。

日本のみんなを励ますため、全国各地を巡幸される昭和天皇陛下。Wikipediaより。

常に世界の平和を祈り続けて来られた天皇陛下と日本人の絆は、重治や先人たちのお陰で、今日も脈々と受け継がれています。

エピローグ・その後の重治

天皇陛下が助かった後も、重治はGHQの軍人たちに対して日本に善政を求めるべく積極的に交流し、昭和二十一1946年には衆議院選挙で当選して国政にも復帰(残念ながら翌年落選、政界引退)。

昭和二十二1947年に日米文化振興会(現:日米平和・文化交流協会)を創立してその会長に就任、昭和二十五年にはGHQによるアメリカ渡航許可第1号として渡米し、ワシントン大学や母校のシカゴ大学、そして全米在郷軍人会などで精力的に講演し、日米連携にむけた理解促進に努めました。

他にもフィリピンを訪問したり、日豪(オーストラリア)親善に尽力したり、太平洋せましと駆け巡る日々を送ります。

そんな重治でしたが、昭和六十1985年4月10日、東京都世田谷区松原の自宅で98年9ヶ月の人生に幕を下ろしました。

葬儀は自宅で行われ、元首相の福田赳夫(ふくだ たけお)やマンスフィールド駐日アメリカ大使らが参列。今も都内の多磨霊園に眠っています。

ここまで笠井重治の人生を駆け足で辿って来ましたが、最後に重治の人柄を感じられる妻・とも子のエピソードを紹介したいと思います。

晩年、病床に臥している重治の看病に疲れたとも子が、甥っ子にこんなことを話したそうです。

「私は医学を学んで医者にはなったけれど、あまり他人様の面倒を見てあげることができませんでした。でも、私は今こうして先生(=重治)の看病ができて、本当によかったと思います。むしろ、先生を看病するために医者になったとさえ思います。今まで家庭を顧みず世界平和のために奔走してきた先生と、最期こうして一緒にいられるなら、この結婚生活に何の悔いもありません」

どんなに遠く離れていても、心はいつも一緒だった。

きっと、寂しいことも多かったでしょう。悲しい時、心細い時、いつもずっと独りで長い年月を耐え抜くことができた彼女のよりどころは、世界という大舞台で是(ぜ)と信じた大義のため、命懸けで働く重治のひたむきな信念だったのかも知れません。

誰もが互いの違いを認め、尊重し合える世界にはほど遠い現状ですが、かつて重治が甲州の山々の向こうに抱いた青雲の志を、誇り高く受け継ぐ日本人でありたいものです。

※参考文献:
笠井盛男編『笠井重治追悼録』昭和六十二1987年4月
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
七尾和晃『天皇を救った男 笠井重治』東洋経済新報社、平成三十2018年12月

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