たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】

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たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】

盛者必衰は世の習い……とは言うものの、甲州の戦国大名であった武田氏の末路は、四百年余を経た今日にあってなお、聴く者の哀れみを誘わずにはいられません。

偉大なる先代・信玄公の跡目を継いだ勝頼公の重圧と苦悩、老臣と新参者の確執による結束の弱体化、そしていざ劣勢になれば恃みにしていた一門衆の相次ぐ離反……。

勝頼主従の壮絶な最期。月岡芳年「勝頼於天目山逐討死図」慶応二1866年

かつて戦国最強とも謳われた武田の騎馬軍団が見る影もなく瓦解していく惨状を前に、多くの甲州武者たちが絶望感に打ちひしがれたであろうことを思えば、無理からぬ決断だったのかも知れません。

しかし、そんな中でも最後まで武田家再興の希望を捨てず、身命を擲(なげう)って闘い抜き、忠義をまっとうした甲州武者も少なからずいました。

今回はそんな一人・笠井肥後守高利(かさい ひごのかみたかとし)のエピソードを紹介したいと思います。

笠井のルーツは坂東平氏の「葛西氏」から

西光寺所蔵「壱岐入道定蓮(葛西清重)肖像)」

笠井氏のルーツは、桓武平氏の流れを汲む葛西三郎壱岐守清重(かさいのさぶろう いきのかみきよしげ)に始まり、清重は下総国葛西御厨(現:東京都葛飾区)を治めて平家打倒に挙兵した源頼朝公に加勢し、大いに武功を上げました。

その子孫の一人である葛西弘通(かさい ひろみち)が室町時代の永享年間(1429~1441年)に名字を葛西から同じ読みである「笠井」に改め笠井弘通となりましたが、これは遠州長上郡笠井村(現:静岡県浜松市東区笠井町)に移住したことがきっかけとも考えられます。

もちろん、移住以前から名字を改めていて、移り住んだ土地に自分たちの名字を称した可能性も考えられますが、早く現地に馴染み、君民が協調して善政を布(し)こうと考えた方が自然です。

「結城合戦絵詞」より、謀叛に失敗して自害する足利持氏(中央上)。

また、移住のきっかけも、当時関東で勃発した永享の乱(永享十1438年、鎌倉公方・足利持氏が幕府に対して起こした謀叛)の鎮圧に加勢した武功で「かさい」の土地を与えられたためかも知れません。

そして弘通の子・笠井備後守定明(かさい びんごのかみさだあき)は今川氏に仕えたものと考えられ、長録二1458年、笠井村に浄土宗の無量山定明寺(むりょうさん じょうみょうじ)を創建してその開基(かいき。お寺のスポンサー的存在)となりましたが、その頃には親子二代の善政が定着していたことが察せられます。

ちなみに、寺号の定明(じょうみょう)は定明(さだあき)の名前からとっており、定明がよっぽどの恥知らずか自己顕示欲の塊でもなければ、民衆から「わしら地元の殿様」と慕われ、認められていた証左と言えるでしょう。

武田家に仕官・親子二代の忠勤

そんな笠井家が武田家に仕官したのは定明の孫or曾孫と考えられる笠井小金兵衛富清(かさい こきんべゑとみきよ)が享禄年間(1528~1531年)、戦国大名・武田信虎公によって甲斐国へスカウトされたのがきっかけと言われています。

富清は信虎公の期待に応えて数々の武功を上げ、その恩賞として下賜された西島岩間庄(現:山梨県南巨摩郡身延町西嶋の辺り)に土着したそうで、国内に割拠していた国人衆との戦いに勝ち抜き、信虎公による甲斐国の統一に貢献したことがうかがわれます。

その後、信虎の嫡男である信玄公によって信虎公が駿河へ追放された後も、武田家に前途を賭けて信玄公に臣従を誓い、戦に次ぐ戦の中で高利(別の史料では満秀とも)が誕生します。

武田信虎・信玄の両公に仕えた笠井一族。

高利の生い立ちや戦歴についてはあまり詳らかとなっていませんが、肥後守の官途(かんど。官位の私称を許すこと)を受けている事から、武田家の次世代を担う生え抜きの若武者として信玄公のそば近く仕え、陰に陽に彼の覇業を支え続けたのは確かなようです。

そして嫡男である孫右衛門(まごゑもん。後に慶秀—よしひで)も生まれ、ますます武田家に忠節を尽くしたのですが……。

御屋形様の一大事!追っつき参る肥後守

「……御屋形様、いかがなされた!早うお逃げ下され!

大敗を喫した武田軍。徳川美術館蔵『長篠合戦図屏風』より。

時は流れて天正三1575年5月21日、亡き信玄公の跡目を継いだ四郎勝頼公が後世に言う「長篠の合戦」で織田・徳川連合軍に大敗。初鹿野伝右衛門(はじかの でんゑもん)土屋惣藏昌恒(つちや そうぞうまさつね)たった二人の家来を連れて、ひた駆けに退却していた時の事です。

「馬が!馬が進まんのじゃ!……こやつめ!走れっ、走らんかっ!」

激しい戦で草臥れ切った勝頼公の馬は、いくら鞭を叩きこんでも、二進も三進も行きません。その後方からは、織田・徳川の軍勢が猛然と追撃してきます。

「主君を置いては逃げられぬ……惣藏よ、最早これまでじゃ!」

「おうよ伝右衛門……かくなる上は、武田の意地を見せてくりょうぞ!」

そう覚悟を決めた伝右衛門と惣藏の前に、一騎の武者が馳せ参じました。

「……暫く!暫く……っ!」

乱戦の中で主君とはぐれながらも、決死の覚悟で血路を斬り開き、ようやく追いついた笠井肥後守高利その人でした。

【中編に続く】

※参考文献:
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
皆川登一郎『長篠軍記』大正二1913年9月
長篠城趾史跡保存館『長篠合戦余話』昭和四十四1969年
高坂弾正 他『甲陽軍鑑』明治二十五1892年

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