諦めない不屈の闘志!戦国一の名誉挽回をし藩主にまで上り詰めた武将・仙石秀久の生き様!
人は大なり小なり何かしらの失敗はするものです。それを挽回するのにも大なり小なりの努力は必要になります。また、時に失敗には自分の人生を大きく変えることもあるくらい深刻なものも存在します。
今回は戦国時代で武将とはあるまじき失態を犯し、名誉挽回した仙石秀久(せんごくひでひさ)の復活劇をご紹介します。
仙石秀久/Wikipediaより
仙石秀久って何をした人?秀久は天文21年(1552)に仙石久盛の4男として生まれました。4男で生まれたため家督を継げなかった秀久でしたが、当時仕えていた斎藤家と織田家との戦で相次いで跡継ぎを失ったため急遽家督を継ぐことになりました。
永禄10年(1567)には斎藤家が織田信長に壊滅的なまでに敗れましたが、秀久は信長に14歳にして勇ましい風貌を気に入れられ豊臣秀吉の家臣に任命されます。
紙本著色織田信長像/Wikipediaより
以降、秀吉の最古参の家臣として姉川の戦いや中国攻略などの主要な戦に参加して戦功を上げていきました。
豊臣秀吉像/Wikipediaより
天正10年(1582)信長が本能寺で倒れると秀吉と共に中国大返しを行い、山崎の戦いに参戦します。
山崎の戦いでは淡路にいる明智勢の討伐にあたり淡路平定を行います。
それから秀久は淡路で賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側についた長曾我部元親の足止めや淡路の防衛をした功績で天正11年(1583)に淡路国5万石の大名として出世し、天正13年(1585)には四国攻めの功績で讃岐国を貰っています。
ここまで順調に出世していった秀久に大きな悲劇が舞い込んできます…
私はここで失敗しました…天正14年(1586)、秀吉による九州攻めで秀久は先陣である四国勢の軍監(武将たちの戦働きを見る監督役)として九州に上陸します。
九州では秀吉に救援を求めた大友宗麟率いる2万の軍がいましたが戦意喪失していました。
そして、秀吉率いる豊臣本軍中々来ないことと島津氏の攻勢も相まって焦りを感じた秀久は秀吉からの待機命令を無視して仙石・四国勢6000人の兵士を率いて戸次川を渡河します。
この瞬間を待っていたかのように島津家久率いる10000の軍が攻撃を仕掛けてきました(戸次川の戦い)。
当初は秀久たちの方が優勢でしたが、油断して突っ込んだ秀久に家久は反撃し、秀久隊は壊滅します。そこで秀久は何を思ったのか軍監の職務を放棄して我先に自国の讃岐に帰ってしまいました。
この戦いで元親の嫡男、長曾我部信親と十河存保(そごうまさやす)が討死するという大敗北を喫しました。
長曾我部信親の錦絵/Wikipediaより
当然、これに秀吉は怒り、秀久の領地を没収し高野山へ追放しました。
これぞ仙石秀久の名誉挽回だ!高野山で過ごしていた秀久は天正18年(1590)の小田原征伐で徳川家康の助けもあって徳川軍として先鋒を務めます。この時、秀久は陣羽織に無数の鈴をつけ、存在感を出していたので「鈴鳴り武者」と呼ばれていました。
徳川家康像/Wikipediaより
九州征伐の失敗を返上するかの如くの槍働きで秀久は秀吉との謁見を許されます。秀吉からは金の団扇と信濃国小諸の領地を貰い、大名として返り咲きました。
秀吉死後は恩がある家康に仕え、関ヶ原の戦いを経て小諸藩の初代藩主となりました。
最後にどんなに親しい仲でも一度の失敗で名声や信頼を失うことはあります。大事なのは失敗する前に一度考えることですが、失敗してしまったら信頼を取り戻す方法を模索する必要がありますね。
そう考えると秀久は最後まで諦めることのない不屈さが信頼を取り戻す方法だと思い行動した結果、名誉挽回できたと思いますね。
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