「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言【上】 (2/4ページ)

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そんな忠順の転機となったのは嘉永六1853年7月8日、開国通商を求めて黒船つまりペルリ率いる米海軍・東インド艦隊が浦賀に来航した事件でした。

幕末の瓦版に描かれた「黒船」。人々の恐怖と好奇心、そして衝撃が如実に表現されている。

幕府が圧倒的な海軍力の差ゆえにペルリと同等に交渉できず、不平等な条件を呑まされた屈辱から、国力を増強するべく欧米列強と積極的な通商を主張するようになります。

安政二1855年に父・忠高が亡くなると家督を継いで小栗豊後守(ぶんごのかみ)を称し、安政七1860年には遣米使節に同行。日米修好通商条約の通貨交換比率の見直し協議やワシントン海軍工廠の視察などを通して、製鉄および造船技術に強い関心を持つようになったのでした。

帰国後、外国奉行勘定奉行(就任した文久二1862年、上野介を称する)を歴任した忠順は、文久三1863年に製鉄所の建設を提言。十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の承認により、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指揮で建設を進めました。

明治初期の海軍工廠。ここから海洋国家・日本を支える多くの艦船が巣立っていった。

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