高石勝男、水泳でオリンピック初入賞を果たした男「いだてん」第29話振り返り (2/3ページ)
このプールは1916年に竣工しますが、当時生徒であったノーベル賞作家である川端康成もプールのための穴掘りに参加したそうです。
そうしてプールが完成して以来、茨木中学は数々の水泳選手を輩出しました。高石もそのうちの一人であり、ここでクロールを身につけます。彼を指導したのが、中学の教諭であった杉本伝でした。杉本は世界最先端の水泳研究を学び、高石勝男らを育成したのです。
パリ大会で5位入賞、アムステルダム大会で銀・銅実力をつけた高石は、1924年オリンピック(パリ大会)に初出場するやいなや、自由形100mおよび1000mで5位入賞を果たしました。
日本の水泳選手が日本泳法(古式泳法)をひっさげてオリンピックに初出場し、クロールをマスターした他国選手たちに力の差をまざまざと見せつけられてからちょうど4年。たった4年で世界標準の泳法であるクロールを学び、世界に足並みをそろえたのです。
高石の躍進はここでとどまらず、さらに4年後のアムステルダム大会では800m自由形リレーで銀メダルを、100m自由形で銅メダルを獲得しました。
続くロサンゼルス大会では、ドラマで描かれた通りロサンゼルスへ遠征はしたものの選手には選ばれず……。後輩たちの大活躍を間近で見ていることしかできなかった高石の胸中はわかりませんが、彼らの活躍も先駆者である高石あってこそのものだったでしょう。
東京オリンピックでは水泳日本代表総監督に引退した高石は、以後後進の育成、さらには水泳普及に努めました。子どもたちが誰でも泳げるように、という教育を進め、トップ選手たちだけでなく泳げない子どもたちの指導にも熱心に取り組みました。
晩年、高石は東京オリンピックの水泳日本代表総監督に。さらには日本水泳連盟の会長も務めました。
ところが、オリンピックが終わってみれば水泳は惨敗。かつてアメリカをも上回った日本の水泳は、このころには再び世界の後れを取ってしまっていたのです。世界各国で温水プールが普及して一年中練習できるようになったのに対し、日本では未だ屋外プールが主流だったことも敗因だったとか。
高石はそれまでの指導方法から方向転換し、スポーツ科学に目を向けていたところでした。