関ヶ原の戦いで一番の手柄を上げた!でもマイナーな「可児才蔵」の武勇伝を紹介!

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関ヶ原の戦いで一番の手柄を上げた!でもマイナーな「可児才蔵」の武勇伝を紹介!

慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦い。決着は1日で決したものの、誰が一番の武功をあげたのか気になるものです。

そこで調べてみると驚くことに国持大名でも結構な碌をもらう武将でもなく、福島正則に仕えた一兵卒の身分であった可児才蔵(かにさいぞう)であることがわかりました。

可児才蔵/Wikipediaより

しかし、可児才蔵と言われても誰?って思う方がほとんどかと思います。

ということで今回は、可児才蔵とは何者なのかを有名なエピソードを交えて紹介します。

粋なパフォーマンスでついたあだ名は「笹の才蔵」

才蔵は天文23年(1554)に生まれます。はじめ才蔵は斎藤龍興に仕えますが、斎藤家の滅亡と共に織田家の家臣柴田勝家や明智光秀などに仕えます。

転々と主君を変えてきた才蔵は天正10年(1582)に起きた甲州征伐では森長可に仕え、16の首級をあげます。しかし、16も持つことは出来ないので3つだけ長可のもとへ持って行き、残りは口に笹を含ませ目印としました。

森長可/Wikipediaより

もちろん、3つしか持って来ていないので疑われるのですが、笹のことを伝えると長可は才蔵の武勇を褒めたたえました。才蔵はこのことをきっかけに「笹の才蔵」と呼ばれることになります。

ちなみに「ささ」という文字には笹と酒(さけのさを重ねた)2つの意味が当てられます。

このことから笹を口に含んだということは酒を口に含んだという意味合いにもなり、最後の手向けとして酒を与えた才蔵は敵にも敬意を払っていたことがわかります。

頼りない主君は容赦なく見限る肝っ玉の持ち主

その後に起きた本能寺の変で織田家は壊滅したので才蔵は豊臣秀次に仕えます。秀次に従って天正12年(1584)の小牧長久手の戦いに参加します。

才蔵は徳川軍に対して野戦を敢行しようとする秀次に対して猛反発をしますが、聞き入れられませんでした。

 太平記英勇伝九十九:豊臣秀次/Wikipediaより

そして、徳川軍の奇襲を受け秀次隊は壊滅し、秀次は命からがら徒歩で敗走します。そんな秀次を尻目に才蔵は馬で余裕の撤退をしていました。

見かねた秀次は才蔵に馬を貸せと言いますが、才蔵は「雨の日の傘に候(雨の日には傘が必須であるように、今この時に必要な物は譲ることはできない)」と言いました。

後日秀次の怒りを買った才蔵は出奔し、浪人となってしまいました。

主君には厳しい才蔵でしたが、部下には優しく武勇が優れていた部下がいると自分の碌を分け与えるという一面もありました。

上司が間違いを起こすときちんと注意し、部下を大切にする才蔵はまさに理想の上司でもありますね。

槍の名手で「槍の才蔵」の別名も

才蔵は龍興に仕える前に宝蔵院流槍術を創始した宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)から槍を学んでいました。

 宝蔵院胤栄/Wikipediaより

ある時、才蔵は槍を修行しすぎたあまり、逆に槍を扱えなくなってしまいます。その時胤栄から「無心になっても槍を使えるようになるまで修業しなさい」と諭されます。

そこから無我夢中に修業した結果、槍を迷いなく自在に扱えるようになりました。胤栄から学んだ才蔵の槍働きは凄まじくいつしか「槍の才蔵」とも呼ばれるようになっていました。

最後に

数々の武勇を誇った可児才蔵。その誉れ高き武勇は死後も称賛されるくらいの人気ぶりでした。ここまでの武勇を示したのは才蔵が自身の名を残したかったからだと思います。

誰にも負けたくない一心からただ武勇を磨き続けた才蔵のハングリーさは笹の才蔵のあだ名と共にずっと残っていくでしょう。

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