伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[後編]

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伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[後編]

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伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[前編]

伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[中編]

地獄太夫という名の菩薩 河鍋暁斎 「応需暁斎楽画・第九号」「地獄太夫かいこつの遊戯をゆめに見る図」 都立中央図書館特別文庫室所蔵

河鍋暁斎 「応需暁斎楽画・第九号」「地獄太夫かいこつの遊戯をゆめに見る図」 都立中央図書館特別文庫室所蔵

この絵を描いた河鍋暁斎は、東京湯島の霊雲寺に仏教修行の弟子となったこともあり、同じ求道者(菩薩)としての“地獄太夫”に共感したのか、地獄太夫の絵を多く残しています。

上掲の絵では、骸骨たちが酒をのんだり三味線をひいたり喧嘩をしたり、もう好き放題やっています。そんな夢を見ている地獄太夫はとても優しい顔をしています。悪夢を見ているような苦悶の表情ではありません。それこそ骸骨たちを包み込むような、全てを受け入れているような表情です。

この絵が描かれた1874年は、元号が明治に変わった6年後です。江戸から明治に時代が代わり、日本の歴史上の大変革期でした。人々のこれまでの生活は一変し、今までのものが否定され、いくつもの争いが起こり、多くの人が傷つき、失われ、亡くなり骨となっていったのです。

1871以降_河鍋暁斎_閻魔地獄太夫図

河鍋暁斎_閻魔地獄太夫図

この絵は掛け軸に描かれた絵です。地獄にあるという浄破瑠鏡という鏡に映る地獄太夫を、閻魔大王はなにか愛情溢れる、面白そうなものでも見るような目で見ています。

“これが噂に聞く地獄太夫という者かとでもいうように”。浄破瑠鏡は亡者の生前の悪い行いが映し出されるもので、それを見て閻魔大王は亡者の罪の重さを判断します。閻魔大王を穏やかに見上げる地獄太夫。この二人の姿を見ていると、なんだか温かい気持ちになるのは筆者だけでしょうか。

“伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[前編]”に掲載した暁斎の作品“地獄太夫と一休”では、一休禅師はなんと骸骨の頭の上に乗って陽気に踊っています。

河鍋暁斎は、新政府の役人を風刺する絵を描いて投獄された“反骨の人”であり、自らを“画鬼”と称した歌舞伎絵師です。一休禅師と同じく、権力を振りかざして形骸化されるものを嫌い、地獄太夫のように悟りを求め、そして人々の気持を和ませるユーモアの人であったのかもしれません。

おわりに 月岡芳年 あずまにしきえ日進佐渡流刑_地獄太夫(部分)出典:国立国会図書館

月岡芳年 あずまにしきえ日進佐渡流刑_地獄太夫(部分)出典:国立国会図書館

地獄太夫が本当に実在した人物なのか。1929年に発行された『日本遊里史』という本に地獄太夫の名があるものの、地獄太夫は室町時代に存在したとされる人物であり、一休禅師にからめて書かれたお話に名前が登場することが多く、その点で疑問は残ります。

それを踏まえて、地獄太夫は最期に次のような辞世の句を残したと言われています。

「我死なば焼くな埋むな野に捨てて飢えたる犬の腹をこやせよ」

地獄太夫がたとえ架空の人物だったとしても、最期にこの句が残っているということは、人々が地獄太夫を、自己犠牲の仏教の極みに到達することを望んだのではないかと思うのです。

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