そうだったの!?日本のキャラメルはかつて ”禁煙用のお菓子” として販売されていた (2/2ページ)
こうして、2坪から始めた「森永西洋菓子製造所」は、大正9(1920)年には従業員が1300人を超え、その翌年には当時「東洋一のオフィスビル」と称された丸の内へ本社機能を移転。森永は名実ともに「東洋の製菓王」と呼ばれるようになります。
大正12(1923)、関東大震災が起きると、クリスチャンでもあった太一郎は、いち早く被災者救援活動に乗り出し、ビスケット6万袋、ミルクキャラメル10万箱を日比谷公園などへ運び込んで配布したり、乳幼児を抱える母親に対してはドライミルクを徹夜で配ったりするなど、支援活動に力を注ぎました。
昭和12(1937)年、日本の洋菓子会の発展と人々のために献身的に尽くした太一郎は71歳で死去しますが、その際、息子に語ったとされる最後の言葉も「困っているひとがいたら助けてあげなさい」だったといいます。
参考:『菓商―小説 森永太一郎 』(若山三郎 徳間文庫 1997)
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