日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺

心に残る家族葬

日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺

佐賀県唐津市の近松寺(きんしょうじ)には、江戸文化を代表する浄瑠璃・歌舞伎の作者であり、「日本のシェークスピア」とも評されてきた近松門左衛門(1653〜1724)を埋葬したとされる墓がある。
誕生から独り立ちするまでの状況が謎に包まれている近松門左衛門だが、今日一般に信じられていることは以下の通りである。


■近松門左衛門の誕生から家族構成、名前の由来など

近松門左衛門の本名は杉森信盛。杉森家はもともと、京都の三条実次より出た武家だったが、近松の父・信義が越前(現・福井県)吉江藩の藩主・松平昌親の付き人として越前に在住していた際に、近松はその次男として生まれたとされている。母は藩の侍医・岡本為竹法眼の娘で、弟は多くの医書を著した岡本一抱である。近松はある時期、近江(現・滋賀県)の近松寺(ごんしょうじ)に遊学していたことから、筆名「近松」の由来になったという。

■歌舞伎・浄瑠璃との出会いや近松門左衛門の作劇法

近松が思春期になった頃、父が浪人し、京都に一家で移住することになる。そこで近松は後水尾天皇の弟・一条恵観などの公家に仕えた。そこで和漢の古典的教養を身につけたのみならず、公家たちの間で人形浄瑠璃が好まれていたことから、加賀節を創始した宇治加賀掾(うじかがのじょう、1635〜1711)と縁を結び、浄瑠璃を書き始めたという。

そのような近松が大阪・道頓堀で活動していた浄瑠璃語りの竹本義太夫(1651〜1714)のために、貞享2(1684)年、『出世景清』を書いた際、古来の浄瑠璃とは異なった革新性を有していた作風ゆえに、作者としての名声を博することになる。更に、実際に起こった心中事件をモチーフとした『曽根崎心中』(1703年)が大当たりした。その後の近松の活躍は、時代を超え、今日の我々をも惹きつける名作を次々と生み出していくことになる。

近松の作劇法は「義理」の作劇法と言われる。ここで言う「義理」とは、「義理堅い」などの道徳的なものではなく、そうなるように追い込まれていく状況、登場人物の心の葛藤を描いたものを意味する。その結果、従来の、「血が通わない」人形による「語り物」ではなく、人形であるにも関わらず、人間と同様の「情」がこもったドラマとしての「語り物」演劇へと転換させることに成功したのだ。

■近松門左衛門の辞世

70歳を過ぎたぐらいから病気がちになった近松は、作品数も減っていき、『関八州繋馬』(1724年)を絶筆として、大坂・天満で72歳の生涯を閉じた。死の十数日前、自らの死を察した近松による自筆と言われる辞世の文は自らの一生を軽妙に振り返った。

「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿(さんこうきゅうけい)につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂て商売知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがひもの…(略)…」


そして、辞世の句もまた同様だった。

「それぞ辞世去程に扨(さて)もそのゝちに残る桜が花し匂はゞ
残れとは思ふもおろか埋(う)み火の消(け)ぬ間あだなる朽木書(くちきが)きして」

近松は自らの作品、人生そのものを「脆い消し炭や焼き筆で下絵を描くこと」と突き放した姿勢で見つめていたことがうかがい知れる。その近松の墓は、兵庫県尼崎市の広済寺と大阪市中央区の法妙寺にある…。

■どうして佐賀県唐津市に近松門左衛門の墓があるのか

近松が活躍していた当時、すなわち江戸時代中期は、浄瑠璃や歌舞伎を含む芸術・芸能文化の中心だったのは、幕府が置かれていた江戸よりも、京大坂だった。それゆえ、「近松門左衛門の墓」と言えば、今日の我々の「イメージ」としては、漠然と、関西地方に所在しているように思われてきた。そして実際に、兵庫と大阪に墓がある。しかし、近松が活躍していた京大坂から遠く離れ、近松と何の縁もゆかりもなさそうな佐賀・唐津に何故、近松の墓があるのだろうか。

■佐賀県唐津市の歴史と近松寺の寺伝


佐賀県唐津市を含む東松浦地域、そして現在の福岡県糸島(いとしま)市や、福岡市西区は玄界(げんかい)灘に面していることから、古代から、中国大陸や朝鮮半島との関わりが深い「場所」だった。弥生時代中期には、遺体の埋葬方法として甕棺(かめかん)を採用し、副葬品として多くの青銅器も埋葬されていたことから、大陸文化の受容、そして交流が、日本各地よりもいち早く行われていたことが判明している。その後、遣唐使派遣や倭寇、そして豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜1593、1597〜1598)の拠点でもあった。しかも「唐」(中国)の「津」(船着き場)を意味する「唐津」という地名の由来だが、11世紀後半〜12世紀にかけて、宋代の中国人が集住した地域である「唐房」が博多に形成されていたことと同様の状況が東松浦地域にもあったと推察されることから「唐人の津」が、「唐津」になったのではないかと考えられている。しかも、このような唐津だが、江戸期においては、他の地域とは異なり、長期に渡る藩主の一大支配がなされなかったまま、明治維新を迎えたのである。しかし、初代藩主・寺沢広高によって、慶長12(1607)年から5年の年月をかけて唐津城が築城され、城下町も整備されていった。

そして近松寺は、臨済宗南禅寺派の禅寺である。寺伝によると、鎌倉時代後期の乾元元(1302)年に創建された。松浦7か寺の1つに数えられていたが、1541(天文10)年、日本初の禅寺である博多・聖福寺(しょうふくじ)の住持で、遣明正使でもあった頣賢碩鼎(いけんせきてい)が招聘され、再興された。戦火による焼失を経て、1596(慶長元)年、唐津を鎮めた寺沢広高に対し、住職として聖福寺から招かれていた耳峯玄熊(じほうげんゆう)が近松寺の復興を条件に、外国通辞(つうじ、通訳のこと)の任に当たることとなり、現在地に移転した。寺沢家の断絶後にまたも衰微したが、第4世・遠室明超(えんしつみょうちょう)が3代将軍・徳川家光に寺の隆盛を懇請した。それによって100石の寄進を受け、寺勢は盛り返し、今日に至っている。

■近松門左衛門の墓は全国七箇所にも及んでいるが唐津市にある理由とは

「近松門左衛門の墓」と伝えられているものは、先に述べた尼崎の広済寺、大阪の法妙寺に加え、同じく大阪市西成区の小さな神社・松乃木大明神の境内にある碑、そして佐賀県内では、唐津市の近松寺、同じく東松浦郡七山村(現・唐津市)の、先祖は源融(みなもとのとおる、822〜895)まで遡り、近松と血縁があるという鶴田家の墓域、更に杵島郡山内町(現・武雄市)の、近松と家系がつながっているという杉森家の墓域。更に長崎県東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)の宮村(みやむら、現・長崎県佐世保市)と、7箇所にも及んでいる。もしかしたら、他にも近松の墓とされるものがあるのかもしれない。

唐津市の近松寺の墓のいわれは、以下の通りである。先に述べた遠室が、徳川家光に請願のため江戸に赴いた際、帰路の下関の宿で、幼い頃の近松門左衛門と偶然に出会った。近松の利発さに心打たれた遠室は、近松を連れて近松寺に戻った。そこで近松は遠室に帰依し、勉学に励んだ。年を経て、近松は京に上り、還俗して、浄瑠璃や歌舞伎の大作者となった。しかし近松は遠室、そして近松寺のことをずっと忘れずにいた。それゆえ遺言によって、近松寺に葬られたというものだ。

寺内の墓石には、後につくられた可能性もあるというが、「印海祖門上座(近松のこと)は長門国深川の人である。当山第四世の遠室禅師に従って業を授けられて得度した。学識共に卓絶していた。その後、京都に遊び姓名を変え、近松門左衛門と称し、浄瑠璃の台本を著作することを業とした。享保九甲辰年十一月二十二日に浪華で亡くなった。遺言によって当地の墓地に葬られた。享保十乙巳年六月二十二日 当山六世現住鏡堂これを識す」と彫られている。

■近松寺と近松門左衛門の関係

この話の根拠となるものの第一に、近松の生誕地が越前ではなく、比較的唐津に近い長州(現・山口県)だという説がある。それは江戸時代中期〜後期の御家人かつ文人の大田南畝(なんぽ、1749〜1823)の著書『仮名世説』(1825年)によると、ある時南畝は、浄瑠璃好きで近松のファンであった大坂の好事家に依頼され、近松のために碑文を書くことになった。その碑文に、「近松は長門萩(現・山口県萩市)の生れにて」という文言があった。この碑そのものはどこかに建立されることはなかったようだが、大正11(1922)年、大阪・法妙寺に、『仮名世説』に記された文章を刻んだ碑が建てられた。このことが後々、近松の生誕地として長州が信じられる大きな要因となったという。こうしたことから、越前ではなく長州で生まれた近松が、唐津・近松寺の遠室禅師と偶然の出会いをしたと考えられるようになった。

そして近松の作品に、明朝の中国と長崎・平戸を舞台とした『国性爺合戦』(1715年)、実在の博多の豪商で、唐津や長崎で明や朝鮮との国際貿易を行なった伊藤小左衛門(?〜1667)を主人公とした『博多小女郎波枕』(1718年)のように、当時としては珍しい、「国際的」かつ、スケールの大きなものがあること。そして、現在の佐賀県武雄市と西松浦郡有田町の間にある黒髪山(くろかみざん)に古くから伝わる伝説、「鎮西八郎源為朝(1139〜1170)の大蛇退治」を、滝沢馬琴(1767〜1848)の『椿説弓張月』(1897年)よりも前に、近松が浄瑠璃にしたと伝えられているところから、近松と「唐津」の「距離の近さ」「思い入れの深さ」ゆえに、自らの墓所として唐津・近松寺を希望したというものだ。


■近松寺の墓が近松門左衛門かどうかについては森鴎外も言及している

明治の文豪・森鷗外(1862〜1922)が、小倉第12師団軍医部長当時の明治34(1901)年5月20日、徴兵検査の視察後に近松寺を訪れ、近松の墓を精査した。鷗外は、『小倉日記』(1899〜1902)の中で、墓の足石部分に刻まれた文を書き写す際に「文は諸書に載すと雖、其の或は誤脱あらんことを慮りて謄写す」と、近松の墓の真偽の「判定」に関しては慎重な立場を取っていた。

小倉に戻った後、鷗外は近松にまつわる話を、小倉・堺町にかつてあった東禅寺の僧・片山文器から話を聞いている。それによると、近松はもともと、僧職だった。そして肥後国益城(現・熊本県宇城市)出身の鐡眼道光(てつげんどうこう、1630〜82)と共に学んでいた。長じて後、2人は京大坂で再会した。黄檗宗の名刹である長崎・東明寺の隠元(1592〜1673)の元で禅僧となっていた鐡眼は、寛文4(1664)年から、飢えに苦しむ畿内の人々のために『大蔵経』を刊行することを発願し、施財を集める全国行脚の旅に出ていたところだった。そのことを聞いた近松は、鐡眼の行っていることに匹敵することを探し求めた。その結果、ついに、浄瑠璃の作者となって名を成した。片山文器曰く、その話が信用できる話かどうか、わからないが…と。

■最後に

今日の我々にとって「お墓」とは、死者を地中に埋葬した後、他者・他家のものと区別するため、目印として、「○○之墓」「○○家代々之墓」と彫られた石を立てることが「当たり前」の、「唯一無二」のものである。

しかし「お墓」はそればかりではない。地域を代表する著名人をいつまでも忘れない、そして後世に語り継ぐための「モニュメント」としての役割を果たしている場合も少なくないのだ。唐津・近松寺の近松の墓の場合は、唐津という「場所」を際立たせる『博多小女郎波枕』などの作品を残したばかりではなく、幼い頃に唐津・近松寺で遊学したという言い伝えも残っているがゆえに、多くの唐津の人々に親しまれてきた近松を偲び、かつ、讃える役割を果たしてきた。その点において、唐津・近松寺の墓は「本物」だと言えるのではないだろうか。

■参考資料

■牧川茂太郎『松浦名勝案内』1908年 牧川書店
■秋山木芳『義太夫大鑑 (上巻)』1917年 秋山木芳(刊)
■松代松太郎『東松浦郡史』1925年 久敬社
■大木紅塔『日本各地傳説集 山陰九州篇』1935年 國本出版社
■植村平八郎『松浦史綱』1936年 唐津屋書店
■木谷蓬吟『私の近松研究』1942年 全國書房
■唐津市史編纂委員会(編)『唐津市史』1962年 唐津市
■花山院親忠『ふるさとの散歩道 肥前・筑後』1971年 金華堂
■財団法人全日本仏教会・寺院名鑑刊行会(編)『全国寺院名鑑 中国・四国・九州・沖縄・海外篇 改定第2版』1969/1970/1973年 財団法人全日本仏教会・寺院名鑑刊行会
■森鷗外『鷗外全集』 第35巻 1975年 岩波書店
■松浦文化同盟(編)『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 唐津』1981年 国書刊行会
■志波深雪「近松寺」佐賀新聞社・佐賀県大百科事典編集委員会(編)1983年(218頁)佐賀新聞社
■橘英哲「近松門左衛門の墓」佐賀新聞社・佐賀県大百科事典編集委員会(編)1983年(545頁)佐賀新聞社
■桜井景雄「鐡眼道光」日本歴史大事典編集委員会(編)『普及新版 日本歴史大事典』第7巻 1985年(82−83頁)河出書房新社
■原道生「近松門左衛門」日本古典文学大辞典編集委員会(編)『日本古典文学大辞典 簡約版』1986年(1207−1209頁)岩波書店
■宮原英一『近松門左衛門の謎 −長州生誕説を追って』1994年 関西書院
■杉谷昭・佐田茂・宮島敬一・神山恒雄(編)『県史41 佐賀県の歴史』1998年 山川出版社
■広末保「近松門左衛門」竹内誠・深井雅海(編)『日本近世人名辞典』2005年(610−612頁)吉川弘文館
■信多純一「何一つ言い遺すことができず 近松門左衛門 (1653−1724)」立松和平・山折哲雄・宮坂宥勝(監修)『日本の生死観大全書』2007年(76−80頁)四季社
■宮島敬一「地域史・説話と地域社会の形成 −黒髪山為朝伝説を巡って−」地域学歴史文化センター『地域学シンポジウム −地域学と地域史研究−』2008年12月6日 於・佐賀大学経済学部
■朽津信明「唐津市近松寺の遠室禅師寿像に使用された顔料とその意義」九州国立博物館(編)『東風西声 九州国立博物館紀要』第5号 2010年(78−84頁)九州国立博物館(刊)
■原口善一郎「西肥前武雄旧家に残る江戸寛政期資料」佛教大学大学院(編)『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第40号 2012年(121−130頁)佛教大学大学院
■佐賀県高等学校 地歴・公民部会 歴史部会(編)『歴史散歩 41 佐賀県の歴史散歩』2012年 山川出版社
■小林由明『佐賀の逆襲 かくも誇らしき地元愛 あのヒット曲から10年!SAGAはどこまで逆襲したのか?』2013年 言視舎
■森鷗外 穴井誠二(訳)三澤勝己(漢文指導)『現代語訳 小倉日記』2014年 穴井誠二(刊)
■「近松門左衛門 作品リスト」『広済寺ホームページ
■「利重忠 近松長州説を考える」『長門市ホームページ』 
■「唐津探訪」『唐津市ホームページ
■『公式 瑞鳳山』 近松寺

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