えっ義賊じゃなかったの!?弱き者の為に盗みを働く「鼠小僧」実はただの盗人だった…
義賊として知れ渡っている鼠小僧は歌舞伎やドラマなどの多くの創作物で活躍しています。
しかし「弱い者のために盗みを働く盗賊」というのは後付けであり、鼠小僧のモデルとなった人物は義賊とはほど遠い存在でした。
そこで今回は鼠小僧のモデル次郎吉(じろきち)についてご紹介したいと思います。
四代目市川小團次の鼠小僧/Wikipediaより
本業は鳶職新和泉町(現在の日本橋人形町)に生まれた次郎吉は、10歳の頃に木具職人の元へ奉公に行きます。わずか16歳で親元に帰ってきた次郎吉は次に鳶職(建築の場において高い所で作業する職人)になります。
しかし、素行不良な面が目立ってしまい25歳になると父から勘当を言い渡されてしまいました。
行く当てのなくなった次郎吉はさらに生活が荒れてしまい、ついに博打に手を染めることになります。
その生活も長くは続かず、お金が底を尽きた27歳の時に次郎吉は盗人家業へと足を踏み入れていきました。
次郎吉、闇に堕ちる盗人として盗みを楽しんでいた次郎吉は文政8年(1825)に土浦藩上屋敷に忍び込んだ所を捕まってしまいます。
文政6年(1823)から28か所32回の盗みをしていたのにも関わらず、次郎吉は尋問で「今回の盗みが初めて」と言いのけました。
その後は父の元に身を寄せますが、博打の資金欲しさに再び盗人家業を始めます。
次郎吉は天保3年(1832)5月に上野国小幡藩屋敷で捕まるまでの7年間、71か所90回に及ぶ盗みを行っていました。
その全てが武家屋敷であり、理由は一度忍び込んでしまえば広大で閑散としていて自由に動けるからでした。他にも自身の武家屋敷に泥棒が入ったとしても世間体を気にして誰にも言えないという理由もありました。
しかも盗みで手に入れたお金は全て博打で使っていたので捕まった時、次郎吉にはお金がありませんでした。
拷問を受けた3か月後の8月。次郎吉は市中引き回しの上、獄門の刑に処され36歳でこの世を去ります。
鼠小僧次郎吉の墓
市中引き回しの際には有名人な罪人である次郎吉の格好がみすぼらしいと庶民の反感を買うので、薄化粧に口紅、長襦袢に縮青梅の羽織と黄色の帯に黒の腹巻姿を着せ歌舞伎役者のようにしたとされています。
いつしか義賊として語られた次郎吉はこれまでの盗みの際、誰も傷つけることなく盗みを行いました。また、たった一人で武家屋敷に忍び込んだことが当時の庶民には痛快に思えたことでしょう。
捕まった時にお金がなかったのは貧しい人たちに分け与えたからという噂も相まって、いつしか次郎吉が大罪人ではなく義賊鼠小僧として語られるようになりました。
最後に盗人から庶民のヒーローとして語られることになった次郎吉こと鼠小僧。
次郎吉自身は私利私欲な理由から泥棒家業をしていたにも関わらず、義賊として扱われていることに頭を抱えているかもしれませんね。
庶民の反応を見ていると江戸期は次郎吉のような、これまでの社会に異を唱える英雄を求めていたと考えてしまいます。
鼠小僧日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan