隠すことは悪いことばかりではない。隠すことが必要で正しいときもある。

心に残る家族葬

隠すことは悪いことばかりではない。隠すことが必要で正しいときもある。

「隠す」という言葉は、あまり良い印象を与えない。隠匿、隠蔽、隠し事・・・など様々な意味における「裏」や「闇」を感じさせる。しかし、一方で隠すことの効用も存在する。特に人の生死に関わる事象で「隠す」ことは重要な役割を担ってきた。

■遺体の顔に被せる「覆い打ち」とは

遺体の顔に白い布を被せる「覆い打ち」は遺体の顔を隠すことに他ならない。その目的は、物理的には万一蘇生した時に呼吸などでそれがわかるようにするためであり、精神的には、死者の尊厳を守るためである。遺体の状態に日ごとに変化していき、親族として見るにしのびない。そうしたことから病院では死化粧が施される。鎌倉仏教の祖師たちが、無惨に打ち捨てられていた死体を供養したのも、その有り様があまりに哀れであったからだ。

■遺体の瞼をそっと閉じる行為とは

フィクションの世界では、目が開いている死体の瞼をそっとふせてやる場面がある。医学的にはありえない行為らしいが、もしあのような状況にあれば、ふせることはできなくても何かを被せるなりするはずである。いずれも晒しものにしたくない、その人の尊厳を守ってあげたいという思いからくるものだ。こうした場における「隠す」行為は隠匿・隠蔽どころか、むしろ慈悲の行為であるといえるだろう。

■日航機墜落事と東日本大震災の現場は凄惨極まった

日本航空123便機墜落事故(1985年)の現場はこの稿に書くのは憚られるほど凄惨極まるものであった。最後まで奮闘した機長の遺体は未だ行方不明で発見されたのは歯だけであったという。体育館等の施設には白い布がかけられた棺が整然と並べられていた。しかし、当時の報道倫理は現代からは考えられないほど薄く、写真週刊誌などでは現場の剥き出しのままの遺体の写真が掲載された。

これに対し、東日本大震災の際の報道では津波が襲った現場の映像に遺体の映像が映されていなかった。すでに個人が動画で録画できる時代であり、動画サイトにはそうしたリアルな映像も散見され、教訓として必要との声や、晒しものにするべきではないなど、賛否両論の声がある。

確かに震災のリアルを知るためには必要なことかもしれないが、やはり損壊した遺体はあまりにショッキングであるし、故人を晒し者にしたくないと思うのが自然ではないだろうか。

■なぜ如来像は質素なのか

仏像には大きく分類して、如来、菩薩、明王、天部とある。いわゆる悟った者「仏」とは如来を指す。仏になるための修行中である菩薩から下の位は、華美な衣装を纏っている。対して如来は質素な衣以外はほとんど何も纏っていない(例外もある)。これは悟っていない菩薩以下のクラスは、知恵や慈愛を意味する道具など、様々な意匠を用いて仏の教えを表現しなくてはならないのに対し、如来はそのようなことは必要なく、釈迦がそうであったように、一切の虚飾を捨てている。その質素な姿からは一見、何を表現しているかはわからない。その本質は秘めたる「仏性」にある。質素な見た目だけで判断してはいけない。粗末な衣の下に「隠されている」仏性、その奥からにじみでる宇宙を感じるべきなのである。本質が「隠されている」如来像の美は、花伝書に云う「秘すれば花」の世界が表現されているといえる。では、死者が横たわる場においては何がにじみでているだろうか。

■凄惨な死体が与える衝撃で、冥福を祈るどころの話ではなくなる

凄惨な現場や遺体が与える衝撃は凄まじいものがある。人間が感覚で受容的する情報は視覚によるものがほとんどであり、包み隠さず晒されたものを前にすれば、本能的・原始的な苦痛、苦悩、単純な嫌悪感が生まれる。事故や災害の犠牲になった遺体は、不謹慎な想像をさせてもらえるなら、その棺の下には損壊しきって「モノ」と化した死体が納められている。それを直接見たならどうか。我々はその光景に慄然し、冥福を祈るどころではない。あまりの光景に取り乱し、嫌悪感を抱くこともあるだろう。それが自分にとって大切な人であればなおさらである。

■「隠す」ことで向き合える「死」

そうした光景を整然と「隠す」ことで、遺体の尊厳は守られ、我々も真摯な思いを抱くことができる。隠すこと。つまり、あたかも眠っているかのような安らかな顔にすることや、例え身体の一部だけであっても、棺の中に懇ろに弔うなどすることで、我々は冷静を取り戻すことができ、厳粛な態度を呼び起こす。視覚による衝撃が緩和された場において、我々が感じる、そこからにじみでているもの、それはその人の不在である。苦しげな表情も痛ましい傷も血も隠されたその人との対面は、その人の永遠の不在のみを感じとる。遺体の様々なリアルを「隠す」ことで、我々はその人の「死」と純粋に向かい合うことができるのである。

■隠すべきときもある。隠すことが正しいときもある。

なんでもオープンにすればよいというものではない。「ありのまま」とか、「真実を伝える」などと言いながら、その実、好奇の目に晒すための欺瞞であることが多い。既にこの世の役割を終えた人の尊厳を損なうようなリアルを隠すことは、臭いものに蓋をしめる意味の隠蔽とは異なる。「隠す」ことは残された者たちの義務でもある。

■参考資料

■飯塚訓「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」講談社 (2001)

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