悲しき定め…戦国時代に将来を期待されるも若くして亡くなった3人の嫡男たち

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悲しき定め…戦国時代に将来を期待されるも若くして亡くなった3人の嫡男たち

将来を期待されていた人物が若くして亡くなるのは非常に悲しいことです。

戦国時代でもそれは同じで、特に家督を継ぐべき能力と器を持った嫡男が親より先に先立たれるとその死を大いに惜しまれました。また、家の存続を左右することもありました。

ということで、今回は若くして亡くなった嫡男3人と死後の影響をご紹介します。

養父が死を悔いた大内晴持

まず1人目は大内晴持(おおうちもちはる)です。

晴持は大内義隆の養嗣子(家督相続人となるべき養子)です。父は一条冬房で3歳の頃に大内家に跡継ぎとして養子へ入りました。

大内義隆像/Wikipediaより

晴持は美しい容姿と文武の才能があると共に、教養を持ち合わせていたため義隆からは溺愛されていました。

名門大内家の次代を担う器として期待をかけられた晴持は、天文11年(1542)から天文12年(1543)に起きた第一次月山富田城の戦いに義隆と共に出陣します。

戦力では勝っていた大内軍でしたが、対する尼子軍のゲリラ戦術と国人衆の裏切りにより退却となりました。

晴持は義隆と別ルートで退却用の船に乗り込みますが、尼子軍との交戦中に転覆。そして晴持は溺死し、20歳で命を散らしてしまうのでした。

晴持没後の義隆は政治に関心を失い、和歌や衆道などにハマります。そんな義隆は衆道相手だった陶晴賢(すえはるかた)に謀反を起こされ、天文20年(1551)に自害します(大寧寺の乱)。

その後の大内家は毛利元就によって義隆の死から6年後に滅亡しました。

父から覇業を託されていた織田信忠

2人目は織田信忠です。

織田信忠/Wikipediaより

信忠は織田信長の嫡男として生まれますが、顔が奇妙だったことから幼名は奇妙丸でした。

そんな幼名をつけられても信長の後継者として育てられ、元服する前から戦の空気を吸ったり、雑事を一切やらなかったりと厚待遇でした。

紙本著色織田信長像/Wikipediaより

元服後は頭角を現し、本願寺との石山合戦や長島一向一揆を経て多彩な軍略や将としての器が備わっていきます。そして天正3年(1575)には家督を譲られ織田家当主となります。

その後は天正5年(1577)、松永久秀を討った信貴山の戦いや天正10年(1582)の甲州征伐では総大将を務めます。

特に甲州征伐は信長の本隊が来る前に武田勝頼を自害させたので、その武才を信長は褒め称え天下を譲る意志を示しました。

父から名実ともに今後を期待されていた信忠でしたが、同年に起きた本能寺の変の際に自害し20代後半で生涯に幕を閉じてしまいます。

信忠の死後、織田家は清州会議により信忠の嫡男三法師を織田家当主に据えます。

しかし、信長と信忠を失った織田家では乱世に太刀打ちできず、豊臣秀吉の台頭により国力を弱めていく結果となりました。

父から期待を一身に受けていた長曾我部信親

最後は長曾我部信親です。

長曾我部信親/Wikipediaより

信親は土佐の出来人と謳われた長曾我部元親の嫡男です。幼少の頃から聡明で将来を期待していた元親は一流の学問と武芸の師を信親に当て、英才教育を施します。

また、信長にも気にかけてもらい、「信」の偏諱や自らの養子にしたいと願い出たくらい周囲からも将来性を見込まれていました。

184㎝の高身長にイケメンと知勇兼備という高スペックに育った信親は天正14年(1587)の戸次川の戦いで、無謀な突撃を行い真っ先に撤退した仙石秀久隊に代わって島津軍と交戦するも討たれてしまいました。

手塩に掛けた信親を22歳の若さで失った元親の性格は一変し、自分の意見に反対する者は一族だろうと容赦なく粛清するようになります。

絹本著色長宗我部元親像/Wikipediaより

それ以後長曾我部家は、後継者問題や家臣間の争いによってどんどん衰退していくのでした。

最後に

将来を期待してればしているほど失う時の打撃は計り知れないものです。

その悲しみを踏み越えなければ、待ち受ける運命は滅びか衰退という選択肢しか与えない戦国時代がいかに酷な時代かわかりますね。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』

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