怒り抑えきれず…「新古今和歌集」の選者だった藤原定家は暴力沙汰を起こしたことがあった!? (2/3ページ)
『英雄百首』より宇都宮頼綱/Wikipediaより
定家は和歌集の撰進だけではなく『更級日記』や『伊勢物語』などの古典を自らの手で注釈を加えます。
この時に用いた仮名遣いは「定家仮名遣い」と称され、明治時代まで一定の支持を得ていました。
鎌倉時代まで生きた定家は仁治2年(1241)に74歳の大往生を遂げます。自身の家である藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)を歌道の家として確立させた定家は、現代でもその名を広く知らしめることとなりました。
性格も相まって暴力沙汰へ定家は元来頭に血が上りやすい性格でした。その性格が災いとなるのが文治元年(1185)の23歳の時です。
源雅行に侮辱された定家は溢れる怒りを抑えきれず、近くにあった脂燭(しそく:小型の照明具)で雅行を殴ってしまいます。
しかし、この時行われていたのが大嘗祭(天皇が即位した時に行われる来年の豊作を祈願する儀式)で、多数ある宮廷行事の中でも最も重要視される大嘗祭でやらかした定家は官職から追放されてしまいました。
しかし、父・俊成のおかげで事なきを得ます。
藤原俊成/Wikipediaより
その後も定家は性格を改善することはありませんでした。