平安時代の超イケメン貴族・在原業平、単なるチャラ男ではなく野心家でもあった (2/3ページ)
「臣籍降下」は皇族を減らすための苦肉の策だったわけですが、出世コースから外れてしまった業平は臣籍に下ったのです。
業平の人物像については「日本三代実録」という史料に残されていて、それによると容姿端麗で自由奔放、漢学には疎いが和歌に優れていたそうです。
業平が生きていた時代は、女性に和歌を送り、和歌が選ばれた男性だけが女性の家に通うことが許された時代、「和歌がうまい」というのは当時のステータスとして、「女性を口説くのがうまい」というのと同じことを意味していました。
一方で、漢学が得意ということは菅原道真でわかるように、学問一筋の学者タイプ。硬派なイメージです。つまり業平は、良家のボンボンでイケメンタイプ。勉強は得意ではないけれど、女の子を口説くことは超天才的な才能を発揮したということです。
実際、日本最初の歌物語である『伊勢物語』(10世紀前半に成立)の主人公とされ、清和天皇の女御だった藤原高子とも恋仲だったとされています。業平は高子をはじめ生涯に3733人の女性と関係があったといわれています。
ここまでみていくと、在原業平は血筋もよく、何不自由のない暮らしをしながら日々、好みの女性を物色している能天気な男のようなイメージがあります。
ところが…
ところが、素顔の業平は”多情の人”でもあると同時に、”多恨の人”でもあったようです。先述したように業平の祖父は、やらかしてしまった平城天皇。孫でもある業平は出世コースから完全に外されてしまっていました。そんな業平でも25歳になるとようやく従五位に叙せられました。
それでも業平には希望があったようです。ときの皇太子・道康親王の長子・惟喬親王の生母・静が、業平の妻の実家から出ていたため、道康親王が即位して惟喬親王が皇太子になれば、業平の境遇も一気に変わる可能性がありました。
850(嘉祥3)年、仁明天皇が崩御し、道康親王が即位しました。後の文徳天皇です。ところが、文徳天皇が皇太子にしたのは惟喬親王ではなく、同年に誕生したばかりの第四子・惟仁親王(のちの清和天皇)でした。惟仁親王の母親・明子の父親は、時の権力者・藤原の良房で、若い天皇にとっては良房は外舅。