決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】

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決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】

これまでのあらすじ

時は平安末期、「保元の乱」に出陣した大庭平太景義(おおばの へいだかげよし)と、その弟の三郎景親(さぶろうかげちか)

兄・平太は敵の大将・鎮西八郎こと源為朝(みなもとの ためとも)に一騎討ちを挑み、秘策をもってギリギリの逆転勝利を狙いました。

……が、武運拙く平太の矢は躱(かわ)されてしまい、逆に右膝を射られて落馬してしまいます。

「敵ながら天晴れ」感嘆する為朝(イメージ)

そこへ三郎が救援に駆けつけ、這々(ほうほう)の態で戦場から離脱に成功。これまで百発百中だった弓の名手・為朝にとって、平太は生涯で唯一「倒せなかった男」となったのでした……。

これまでの記事

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【中】

許せ三郎……平太の涙雨

「……いやぁ、あと一歩のところでかの強弓・鎮西八郎源為朝めを倒せたンじゃがのぉ……」

「大庭殿……その話につきましては、それがしもう七度目にございますれば……(苦笑)」

「(コソコソ)何年前の話だよ、まったく……」「なぁ……」

時は流れて建久二1191年8月1日。頼朝公の新居が完成したお祝いに、奉行(この場合、工事責任者)を務めた平太の奢りで酒宴が催されました。

宴会に武勇語りはつきもの(イメージ)

居並ぶ御家人たちを前に得意満面で往時の武勇を語る平太の脳裏には、三郎の面影が浮かんでいたことでしょう。

【回想ここから】

「……兄上、もう少しで下野殿(源義朝)が陣所にございますれば、しっかりなされませ……」

為朝との死闘を終えて、白河殿より脱出した三郎は、まず安全なところで平太の着ていた鎧を脱がせ、「兄上の鎧は、我が鎧ともども先祖代々より受け継がれし家宝であるから」と自分の鎧に重ねて着こみます。

それだけでも重いのに、「兄上を見捨てることなど出来ないから」と平太の肩を担ぎ上げて、陣中までえっちらおっちら連れ帰り、味方に平太の身柄と鎧を預けて自分は戦線に復帰、さらに武功を重ねたのでした。

……そして保元の乱より後、右足が不自由で歩行もままならなくなった平太は大庭の家督を三郎に譲って隠居、その移り住んだ地名から懐島(ふところじま)平太と呼ばれていました。

それから二十数年間にわたり、悠々自適の道楽暮らしを送っていた平太ですが、治承四1180年8月、頼朝公の挙兵を前に三郎と決別して頼朝公に味方します。

「許せ、三郎……!」

そして同年10月26日、頼朝公の命によって平太自ら三郎を斬首する運命を辿ったのでした。

【回想ここまで】

「……この故実を存ぜずば、たちまちに命を失ふべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壯士等耳底(じてい)に留むべし。老翁の説、嘲弄(ちょうろう。バカにすること)するなかれと云々……」

※『吾妻鏡』建久二1191年8月1日条。

『吾妻鏡』の記録によれば、その日は一日じゅう雨がやまなかったそうですが、もしかしたら命がけで自分を救ってくれた三郎を我が手で斬らねばならなかった平太が、心の中で流した涙だったのかも知れません。

三郎の亡き後、再び大庭の家督に返り咲いた平太は、頼朝公のブレーンとして大いに活躍したのですが、それはまた別の話。

エピローグ

余談ながら、平太は二十数年の隠居暮らしに退屈していたようで、近隣の地元民を集めて宴会を開いたり、歌舞音曲(かぶおんぎょく)などの芸能に興じたりしたと伝えられています。

田楽に興じる人々。大山寺蔵「大山寺縁起」応永五1398年

現代でも、懐島の地(現:神奈川県茅ヶ崎市)では平太の遺徳を慕う人々によってお囃子が盛んに伝えられているとのことで、かつて平太の自慢話に耳を傾け、笑顔で盃を酌み交わした往時の賑わいが目に浮かぶようです。

参考文献:

栃木孝惟ら校注『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月30日
貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、昭和五十四1979年10月20日 第四刷

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