現代社会における仏教の受容~マインドフルネスと「おとぎ話」~

心に残る家族葬

現代社会における仏教の受容~マインドフルネスと「おとぎ話」~

仏教には禅、密教、浄土系など様々な宗派・思想があるが、関心の無い人は意識することはあまりないようだ。自分の家の宗派を言える人も少なくなってきている昨今だが、葬式仏教などと揶揄される一方、最新の流行のひとつとして受容される一面もある。

■理知的な仏教

仏教は理知的な、宗教というより深遠な哲学として人気がある。ブッダは死後の生についてはあるともないとも言わない(問題にしない)「無記」の態度を取っており、物事にはすべて原因があって結果があるとする「縁起」の思想などは論理的でオカルト的な要素の入る余地はない。神々の存在は否定しないものの、キリスト教的な創造神も想定しないことなどから、仏教は元々無神論なのだと公言する人もいる。無神論=理知的であるという根拠は不明だが、そのような科学的な人が好む仏教は禅であり、原始仏教に近いとされるテーラワーダ仏教などである。

■ZENと仏教とマインドフルネス

特に仏教で人気があるのは禅だろう。鈴木大拙(1870~1966)の海外普及の功績もあり、「ZEN」は世界共通語になった感がある。禅の持つ、「無」を説き「覚り」を説き、座禅を組み自我を超越する云々のイメージは、聖書が語る「おとぎ話」と比べてもクールで理知的な印象を与える。また座禅・瞑想中の脳波を医学的に検証する、一部の心理学と接近するなどして、科学的哲学的無宗教的イメージが強くなった。

禅とは対照的に多神教的要素の強いチベット密教も人気が高い。アメリカではチベット密教の瞑想体系のみを切り取り、非宗教的なエクササイズとして受容された。密教を禅的に解釈したといえる。このような仏教市場(?)に、原始仏教に近いとされ、豊富な瞑想技法を有するテーラワーダ仏教も参入してくる。これらの潮流は「マインドフルネス」と呼ばれ、有効なストレス軽減法としてアメリカのビジネスパーソンに好まれており、昨今では日本に逆上陸してメディアにもよく登場するようになった。「マインドフルネス」という言葉に宗教的な響きは感じられない。「マインドフルネス」を扱う書籍には大抵、「Apple、Googleのビジネスパーソンが実践している」「宗教的な要素は一切ない」といった文言が綴られている。

■浄土系は時代遅れか

こうした潮流に置いて行かれた印象のあるのが浄土系仏教である。現代社会における浄土系の求心力は禅やテーラワーダと比較しても非常に弱い。臨終の際に阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土に往生できるという「おとぎ話」はマインドフルネスとは比較のしようもない。海外ではキリスト教に類似していることもあるだろう。聖書の「おとぎ話」を受け入れられなくなった人たちが仏教の非宗教的要素に惹かれている現状で今さらという他ない。しかし歴史を振り返ると、禅はそのストイックな気風から武士に好まれたのに対し、弱い民衆には敷居が高かった。民衆がすがったのは浄土という臨終の後に用意された安住の地であった。

臨終後に極楽に往生することは残された人たちにも安堵の時間を与える。禅やマインドフルネスがエネルギッシュな現代の戦士たるビジネスパーソンに好まれているのは確かだが、末期患者に対する死の恐怖を緩和するための仏教運動「ビハーラ」が最も進んでいるのは浄土系である。禅系は浄土系と比べるとビハーラ運動があまり進んでいない。その理由は言うまでもないだろう。また海外ではビハーラとほぼ同じ内容の「チャプレン」と呼ばれる運動がキリスト教各派によって進められている。時代遅れとされた「おとぎ話」が、死という現実の中の現実において見直されているのである。

■「あの世」の存在

昨今では出産のほとんどが病院で行われると思うが、退院の際に母親は赤ちゃんに「おうちへ帰ろうね」と囁く。もちろん赤ちゃんは「おうち」を知らない。知らない場所に「帰る」という。赤ちゃんにとって「おうち」なるものがあるとすれば母の胎内であろう。また、胎内から出て初めての外界は分娩室である。母親が帰ろうとするこの「おうち」なるものは、赤ちゃんの世界の外にある。そして赤ちゃんの認識を超えた「おうち」はもちろん存在する。同じ意味で我々の認識の外に「あの世」が存在すると考えても突飛なものではない。人間は全知の神ではない事実が「あの世」の存在の余地を残す。

死の続きがあると思えばこそ、心に安住の地があればこそ安心を得られる。自分の死は恐ろしいし、親しい人の死は悲しい。「あの世」があるのとないとでは大違いである。科学の真理に殉じて「あの世」を否定することで、心の中から安住の地を追放し、死の恐怖・慟哭を受け入れることにどれほどの意味があるだろうか。死が目の前に立ちふさがっている現実に「ある」「ない」の科学的根拠の2択は、まさにブッダの有名な説話「毒矢の例え」(注)の通り意味がない。

注:例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて毒の手当てをしようとする。ところがそのとき、その人が、「しばらく矢を抜くのを待て。だれがこの矢を射たのか、それを知りたい。男か、女か、どんな家のものか、また弓は何であったか~中略~それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。
いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒は全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当てをすることである。(仏教伝道協会「仏教聖典」1996)

■達者でな

筆者の父の出棺の際、兄は父に「達者でな!」と声をかけた。最近ではあまり聞くこともなくなったが、「あの世」に行っても元気で過ごしてくれというほどの意味である。理系の兄は霊とか死後の世界といったものには否定的だが、死者へ手向ける言葉にどこまで本気なのかなどと聞くのは野暮というものだろう。理性では存在するとは思わなくとも、心のどこかに存在する「あの世」が彼の口から出たのだと思う。あるいは生まれる前の「おうち」の記憶があるのかもしれない。それはともかく、死に続きがあり、死者が今でも達者でいるなら末期の病室や斎場は悲しみの場ではなくなる。「おとぎ話」の仏教は理知的な仏教とは違う役割を持って必要とされているのである。

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