クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた!

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クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた!

亡き主君のために決死の仇討を遂げた赤穂浪士。そんな赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家、孟子の末裔がいました。

しかも赤穂事件の際には吉良上野介を討ち取る程の勇猛さも備えていました。

今回は異国の血が混じったクォーター赤穂浪士、武林唯七(たけばやしただしち)についてまとめてみたいと思います。

 三代目市川八百蔵扮する武林唯七/Wikipediaより

祖父は帰化人

唯七の祖父は戦国時代に起きた文禄・慶長の役で明軍捕虜となった孟二寛(もうじかん)でした。孟二寛は日本に連行されると毛利家、次いで浅野家に明で学んだ医学を持って仕えます。

また、武士の身分に取り立てられると自身の故郷であった浙江省杭州「武林」(ぶりん)にちなんで「武林治庵」(たけばやしじあん)と名を変えました。

その後は渡辺姓を持つ妻を迎え入れ、渡辺治庵と名乗りました。

言いたいことはすぐ言っちゃう血気盛んな唯七

治庵の子である渡辺式重(わたなべのりしげ)の次男に生まれた唯七は兄が渡辺家を継いだので、分家をすることになります。

その時唯七は祖父が使用していた武林姓を使用したので「武林唯七」となり、武林家を再興することになりました。

元禄14年(1701)主君の浅野内匠頭長矩が刀傷沙汰を起こして切腹した時、唯七は江戸にいましたがすぐに赤穂藩へ向かい大石内蔵助に誓文を送り江戸に戻ります。

 浅野長矩/Wikipediaより

江戸に戻った唯七は堀部安兵衛に賛同して討ち入りを決行したい派閥の江戸急進派の1となりました。

そして、大石が討ち入りに中々動かないことに苛立ちを覚えた唯七は大石の側近の大高忠雄に向かって「ご家老(大石)が動かないのはあなたたちが腰抜けだからだ」と暴言を吐き捨てます。

 大石内蔵助/Wikipediaより

それくらい唯七は討ち入りに対して積極的だったことが窺えます。

吉良上野介、討ち取ったり!

そして元禄15年(1703)12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ討ち入ります。1時間かけて探しても肝心の吉良上野介が見つけられなかった赤穂浪士たち。

 吉良邸討ち入り/Wikipediaより

近くの炭小屋を唯七たちが射かけると2人の武士が飛び出してきました。その2人を斬り捨てると白髪の老人が脇差を突きたてながら飛び出して来たので間光興(はざまみつおき)が初槍を浴びせ、唯七が2番太刀を浴びせ絶命させました。

 『義士四十七図 間光興十次郎』/Wikipediaより

検死の結果、吉良上野介とわかるとその功績から2番目に長矩へ焼香をあげることができました。

討ち入り後、唯七は毛利家の屋敷で預けられることになります。そして江戸幕府の命令により切腹。32歳の生涯に幕を閉じます。

また唯七は赤穂浪士の中で、唯一漢詩で辞世の句を残しています。

おっちょこちょいな一面も…

勇猛果敢で血気盛んな唯七ですが、こんなおっちょこちょいな面もありました。

まだ赤穂藩が改易される前のこと、九条関白家から広島浅野家本家にカキツバタが贈られました。

カキツバタ/Wikipediaより

広島浅野家本家はこれをお裾分けしてくれるということで受け取りに唯七が江戸屋敷へ向かいます。しかし、唯七が向かったのは隣の福岡藩黒田家の屋敷でした。

屋敷を通されて「間違えた」とは言えない唯七は「お昼ご飯を食べたい」と言い、その場をやり過ごしました。

黒田家の屋敷を後にした後、唯七は目的通り広島浅野家本家からカキツバタを受け取ります。帰路についた時に火事を知らせる鐘が鳴りました。

火事の場所が赤穂藩の屋敷がある付近だとわかると唯七は血相を変えてカキツバタをムチに馬を走らせます。

屋敷には火事の影響がないのが幸いでしたが、長矩に贈られたカキツバタは花も葉もない状態でした。

これには長矩は苦笑いするしかありませんでした。これが唯七の代表するエピソード「粗忽(そこう)の使者」です。

最後に

赤穂浪士の中でまさか孟子の末裔がいるとは驚きでした。孟子とあって知的なイメージがあるかと思いきやバリバリの武に生きた人間だということがギャップに感じました。

辞世の句を漢詩で残すあたり3世の中国人としての誇りもあったのかなと思ってしまいます。

参考:歴史の謎を探る会『江戸の時代本当にあったウソのような話』

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