歴代総理の胆力「近衛文麿」(3)天皇いわくの近衛の「弱さ」 (2/2ページ)

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 また、この第2次内閣では既成政党に代わって軍部の内閣への影響力を抑えることを念頭に、「新体制」としての翼賛会運動に音頭をとったが、結局は思惑どおりには進まなかった。創立された「大政翼賛会」は右傾化の道を辿り、のちに近衛の後継となる東条英機内閣では、単なる国民統制機関に堕してしまった。当初、国民はこの「新体制」へ期待したが、その後のカジ取りに腕力を発揮せず、まったくの期待はずれに終わったということだった。

 第3次内閣では、日米開戦回避を窺った。ために開戦には消極的な海軍の力を借りるべく外相に豊田貞次郎を起用したが日米交渉に進展なく、合わせて陸軍の開戦論に押し切られてしまうのである。

 結果、近衛内閣は昭和16(1941)年10月、日米開戦、太平洋戦争勃発の2カ月前に総辞職を余儀なくされたのだった。また、その総辞職の直接の引き金は、海相の及川古志郎から「和戦」への決断を迫られた近衛が、「私は戦争には自信がない。自信のある人にやってもらわねばならぬ」と述べたことにあった。これをもって内閣を投げ出したということだったが、「胆力」まさにゼロが伝わってくる。

 これら都合3次の内閣を検証してみると、近衛には閣僚の独走を戒めて自ら先頭に立って収拾に動く、あるいは総理として責任を取るといった形跡はほとんどなかったことがわかる。軽はずみな決断で、常に後悔がついて回る“貴公子内閣”だったと言えたのである。

■近衛文麿の略歴

明治24(1891)年10月12日、飯田橋生まれ。京都帝国大学在学中に世襲で貴族院議員。貴族院議長、訪米してフーバー、ルーズベルトの前・現大統領らと会見。大政翼賛会総裁をはさみ内閣組織。総理就任時、45歳。昭和20(1945)年12月16日、毒物により自殺。享年54。

総理大臣歴:第34代1937年6月4日~1939年1月5日、第38・39代1940年7月22日~1941年10月18日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

「歴代総理の胆力「近衛文麿」(3)天皇いわくの近衛の「弱さ」」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2019年 10/3号近衛文麿内閣総理大臣東条英機小林吉弥社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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