【珍説】9代将軍・徳川家重は女性だった?もしそうなら10代将軍・家治の父親は誰!?

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【珍説】9代将軍・徳川家重は女性だった?もしそうなら10代将軍・家治の父親は誰!?

徳川家重にまつわる「珍説」とは?

歴史の中には、ときどき「それって本当!?」と耳を疑いたくなる、都市伝説のような珍説があります。

「暴れん坊将軍」として知られる徳川八代将軍・吉宗の長男である徳川家重は、なんと
「実は女性だったのでは!?」
とまことしやかに囁かれています。

この珍説の発端は、1958(昭和33)年に芝増上寺の将軍廟の改修工事に伴う遺骨調査が行われ、発掘された家重の遺体に女性と疑われる特徴が見られたことでした。

芝増上寺

また家重の生前のエピソードにも、女性だったのでは?と疑われるものがいくつか残っています。

しかしこれが仮に事実だとすると、彼の嫡男で十代将軍となる家治の父親はいったい誰だったのか?という大きな疑問が沸き上がってきます。

なぜ家重は女性説が囁かれるようになったの?

徳川家重は、一般的には「暗君」とされることの多い将軍でした。

病弱で脳性麻痺により言語が不明瞭で、唯一彼の言葉を聞き取ることができたのは、側用人の大岡忠光だけ。
そこから「声から女性と発覚するのを防ぐために、忠光以外に声を聞かせなかったのでは?」という説が浮上しました。

徳川家重:画像出典:Wikipedia/伝狩野英信画、徳川記念財団蔵

また頻尿だったことから「小便公方」というありがたくないあだ名で呼ばれていました。
江戸城から上野寛永寺までの4kmほどの間には、なんと23箇所もトイレを設置していたというから驚きです。
当時は将軍が外出時にトイレをもよおした場合、「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」という役職の者が銅製の筒を将軍の袴から差し込み、用を足させていました。
それなのにトイレをたくさん作っていたことについて「女性だから筒では用が足せなかったのでは?」という見方があるのです。

また幼少の頃から大奥に籠って酒と女に溺れていたと言われていますが、その割に子供は少なく、側室・お幸の方と於遊喜の方との間にそれぞれ男の子が1人ずつ。

さらに歴代将軍の遺骸の中で、家重だけが女性の遺骸の収め方である正座の姿勢で埋葬されていたことや、骨格・歯形などの身体的特徴が女性的だったことなども「家重女性説」に拍車をかけることとなりました。

十代将軍家治の父親は誰!?

さて家重が女性だったとすると、彼の嫡男で十代将軍となる家治と、次男で清水徳川家の初代当主となる重好の父親は誰だったのでしょうか?

この時期、将軍だけが入ることのできる大奥に立ち入ることのできた男性は、家重の父で先代将軍である吉宗と、家重の不明瞭な言葉を唯一聞き取ることができた側近・大岡忠光だけでした。
ですから、この2人のどちらかである可能性が高いことになるでしょう。

もし吉宗だとすると、家重の子を産んだ2人の側室は家重から見れば「父の愛人」という複雑な立場だったことになります。

忠光だった場合、家重は心を許せる相手であり、密かに恋愛関係でもあった忠光との間に子供をもうけた側室たちに対し「女同士の嫉妬心」を持ち、そこから側室たちと不仲になった可能性もあるでしょう。

また家重が忠光の子供を極秘に出産し、側室の子として育てた、なんて説まであります。

家重が本当に女性だったのかどうかは、彼の遺体が発掘調査の後に火葬されてしまったため確かめようもありませんが、本当だとしたら非常にドロドロとした人間関係が存在した可能性が高いですね。

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