念仏講から派生した念仏講まんじゅうが災害伝承の一助となったという話

心に残る家族葬

念仏講から派生した念仏講まんじゅうが災害伝承の一助となったという話

「無縁社会」「孤独死」「墓じまい」などのワードがメディアやネットに踊ることは珍しくなくなった。地域・近所のつながりは希薄化する一方であるが、古くから地元集落に根付いている慣習には無縁社会を救うヒントが残されている。「念仏講」「念仏講まんじゅう」もそのひとつである。

■念仏講とは

僧侶による読経や法要とは別に、在家信者が念仏やお経を唱えたり、寺院や聖地を参詣する地域の集まりがある。これを「講」といい、例えば観音経を読誦する講を「観音講」、念仏を唱える講が「念仏講」などと呼ばれ様々な講が存在する。念仏講の形式には「八日念仏」「十日念仏」など多岐に渡っていて、初七日から四十九日に至る逮夜や忌日、盂蘭盆や春秋の彼岸などの行事の日にも執り行われる地域もあり、統一された形式はない。

「念仏」講というものの、念仏を奉じる浄土仏教系寺院の檀家の間で行われると決まっているわけではなく、超宗派的、神仏習合的な色合いが強い。どの集落も地元に菩提寺があってその寺を中心とした門前町であるとは限らず、念仏と浄土系思想が宗教宗派を超えて民衆の間に浸透していたことがわかる。

■庶民の自主的な信仰による行いだった念仏講

筆者の実家がある集落でもかつては、念仏講が行われていた。一連の葬儀が終わり、その日の夕方に近所の人が集まり念仏を唱えるもので、死者を送る枕経としての儀式であったと思われる。実家は菩提寺まで徒歩で行ける距離ではなく、つまり門前町ではなかった。当然町内の各世帯で宗派も異なっていた。それにも関わらず、祖父母の一連の葬儀が終わると、近所の人達が自宅に集まり念仏を唱えていた。手元には小さな冊子があり、独特の節で念仏を歌っていたものである。その冊子も講で作成されたお手製のもので、寺院は一切関知していないようであった。

念仏講のほとんどはこのように庶民の自主的な信仰形態であるが、寺院で行われたり僧侶に教えを乞う場合などもあり、寺院との関係は地域によって異なる。公民館で祭りのように行われるタイプから、隣近所、集落の中で行われるタイプもある。また、趣は異なるが、東北地方で秘密裏に伝承されている「隠し念仏」も念仏講の一種であるといえる。

■葬儀離れと講の減少

最近の葬儀は葬儀社による会館葬が中心になっており、散骨など個人的または内々で終わらせることも多くなってきている。しかし葬儀の意義として遺族のグリーフワークということがある。葬儀というものは忙しく、遺族も悲嘆に陥る暇はない。身辺が落ち着いたあとで死者の不在をしみじみ感じ入る頃には初七日四十九日などの法要が待っている。悲嘆に陥らないための先人の知恵としての面もあるのだ。通夜、葬儀が終わったあとの夜などに行われる枕経としての念仏講も同様のワークとしての役割があるといえる。しかし、葬儀の変化につれ、念仏講のような慣習も減少の一途を辿っている。

しかし、そもそも念仏講は本来葬儀・法要そのものとは別に行われることがほとんどであり、葬儀などの形式とは基本的には関係ない。そして、供養以外にも地域コミュニティとしての機能を、現代にも活かされた事例がある。

■念仏講まんじゅうとは

昭和57年7月23日、長崎を集中豪雨が襲い長崎市芒塚地区では土石流などにより17人の犠牲者が出た。これに対し隣接する太田尾町山川河内地区は、同じく土石流に襲われ家屋等に被害が出たものの、負傷者はゼロであった。これは住民たちの自主避難によるものであり、その後も集落では、共同炊事などで復旧作業を行い、地域の共助で生活を取り戻した。その行動の背景には「念仏講まんじゅう」という慣習が根付いていたのである。

この地区は万延元年(1840)、土砂災害により33人の犠牲者を出した過去があった。それ以来、犠牲者の供養と災害を忘れないため、毎月14日に住民たちの持ち回りでまんじゅうを配る「念仏講まんじゅう」が行われるようになった。この災害が発生したのは4月8日(新暦5月28日)だが、供養が営まれたのが4月14日であるため、14日を月命日として念仏講が始まった。そしてこの50年ほどにまんじゅうが配られるようになり「念仏講まんじゅう」と呼ばれた。これが「災害伝承」として地域のつながりを保ち、災害リスク軽減に大きな役割を担っていたのだ。その一方、古い慣習に基づくコミュニティ活動が減少傾向にある昨今の波にはやはり逆らえないようで、地元では転換期を迎えている。

■伝承するべきこと

山川河内地区における念仏講と、そこから派生した念仏講まんじゅうは、災害伝承という大きな役割を果たしていた。死者のための集まりが、生きるための知恵になっているのだ。災害の犠牲になった死者たちの霊を弔う思いがこのつながりを保っているともいえる。その意味では、他の地域の「講」にもこうしたつながりが期待できるはずだ。若い世代が「念仏」だの「講」などという古臭い行事にどこまで携われるかは難しいところであるが、「無縁社会」が問われる現代において、人間はひとりでは生きていけないことは伝承するべきであろう。それが志半ばで散っていった犠牲者への供養にもなるはずである。

■参考資料

■高橋和雄/諸続英章「災害伝承『念仏講まんじゅう』調査報告書-150年毎月続く長崎市山川河内地区の営み-」(2013) NPO法人砂防広報センター

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