平安最強!謎の黒づくめ集団を率いた平致経の要人警護が京都で話題に【上編】
古今東西、夜道は危険が多いもの。そこで、かつて平安の貴族たちは兵(つわもの。強者)たちを雇って侍(さぶら)わせ、身辺を警護させたものでした。
それは同時に兵としても食い扶持の確保はもちろん、出世の手がかりにもなるWin-Winの関係でしたが、雇う兵の腕前は、時として生死を分けることもあります。
今回は平安京でも最強クラスであろう、とある用心棒のエピソードを紹介したいと思います。
深夜の急報、いざ三井寺へ今は昔、三井寺(園城寺、現:滋賀県大津市)の明尊僧都(みょうそん そうず)という高僧が、ご祈祷のため平安京にある関白・藤原頼通(ふじわらの よりみち)の館に滞在していた時のこと。
ある日の夜中、三井寺より遣いが来て、よんどころない事情によって大至急帰らねばならなくなってしまいました。
「あぁ、この夜道を行かねばならぬとは、難儀なことじゃ……」
夜間の治安などなきに等しい中世日本の平安時代、丸腰で出歩くなど命の危険さえ伴うリスクの大きなものでした。
しかし、行かねばならぬ以上は覚悟を決めて、明尊は頼通に暇乞いを申し出ます。
「これこれしかじかの事情にて、お暇を賜りたく……」
明尊の事情を聞いた頼通はこの申し出を快諾。更には道中の用心に、と警護もつけてくれました。
「おぉ、忝(かたじけな)し忝し……」
……が。いざ出立に及んで門前に待っていたのは、弓矢一式(弓と箙・えびら)を持った兵(つわもの)と、下人の二人だけ。
どちらも見るからに風采が上がらず、これから京都~大津という遠路にもかかわらず馬もなく、足拵えは乗馬用でもない粗末な藁沓(わらぐつ)。
「……あの、この者たちは……?」
見送りに出て来てくれた頼通に、明尊は疑惑の眼差しで訊ねます。しかし頼通は心配ご無用とばかりのドヤ顔で答えました。
そんな警護で大丈夫か?「これなるは大矢左衛門尉(おおや さゑもんのじょう)こと平致経(たいらの むねつね)。弓馬(ゆんば)にかけては当家一番の達者にございますれば、万事ご安心召されよ」
大矢左衛門尉こと平致経(イメージ)。あまり強そうには見えないが……?
大矢とは文字通り大きな=ロングサイズの矢を軽々と射こなす武勇からつけられた二つ名で、自他ともに認められる腕前を証明しています。
「……さ、左様か。しからば大矢殿、よろしくお頼み申しますぞ」
頼通の太鼓判にも半信半疑、明尊がぎこちなく会釈をすると、致経はわずかに首だけ傾けて武骨に応じました。
しかしその視線は明尊を見据えたまま、実に薄気味悪く、むしろ恐ろしさすら感じます。一方の下人はデンと胸を張ったまま直立不動。
(……本当に、大丈夫なのじゃろうか……)
しかし、何はともあれ先を急がねばならない明尊は自分の馬に跨りますが、つき従う致経らには乗る馬すら見当たりません。
「……その方ら、馬はないのか?三井寺までは遠路ゆえ、徒歩(かち)では参れぬぞ?」
明尊が恐る恐る訊ねると、致経は太い声で、短く
「参れまする」
とだけ答えると、明尊に構わず大股で歩き出し、下人もそれに従います。
「あいや、待たれよ」
警護対象を置いて先に行ってしまうとは、とんだ用心棒もあったものですが、明尊は笑顔で見送る頼通に恨みがましい眼差しでふり返りふり返り、慌てて二人の後についていったのでした。
【中編に続く】
※参考文献:
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2004年10月19日
福永武彦 訳『今昔物語集』ちくま文庫、1991年10月24日
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan