3ヶ月ものサバイバル生活!江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【三】
前回のあらすじ
時は江戸前期の寛文十1670年1月、紀州のみかん商人・長右衛門(ちょうゑもん)は江戸にみかんを出荷するため船出するも、遠州灘で暴風雨に見舞われて遭難。
約1か月半の漂流生活を乗り越えて、命からがら島(現:小笠原諸島・母島)にたどり着くも、船頭の勘左衛門(かんざゑもん)が力尽きて息を引き取ってしまいます。
悪いことは重なるもので、自分たちが乗ってきた船もボロボロになって沈没。残された長右衛門ら六名は、何としてでも生きて帰るため、これから待ち受けるサバイバル生活を覚悟するのでした。
これまでの記事
3ヶ月ものサバイバル生活!江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【一】 3ヶ月ものサバイバル生活!江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【二】 「生きてみんなで帰るんじゃ!」長右衛門の決意「……よぉ旦那、これからどうする……?」
勘左衛門の弔いを済ませると、船頭を失った水夫(かこ)たちは、船が沈んでしまったこともあって、昨日のはしゃぎっぷりはどこへやら。すっかり意気消沈してしまいました。
それだけ勘左衛門が彼らの精神的支柱として大きな存在だったのでしょうが、こんなところでしょげ返ったところで事態は何も改善しません。
ここは長右衛門が、しっかりみんなをリードしなくてはなりません。
「そんなもん、決まっとるがな。みんなで生きて帰るんじゃ!」
日頃の商いで人の使い方は心得たもの、長右衛門はまず6名を2班に分けて、片方に生活拠点の構築、もう片方に伝馬船で島内の探索を担当させました。食糧調達は原則として各班で実施、余裕が出れば貯蔵に回します。
こういう非常事態において、まず重要なのは前向きな目標に向けた任務を全員に割り振ることであり、暇を持て余すことで心身を病んでしまう危険性を、長右衛門は理解していました。
その一方で、日々の仕事を通じて生じる不平や疲労が溜まらないよう、朝と夕に必ず全員で集まって何でも話し合い、必要に応じて任務や人員の交替や適切な休息など、柔軟な組織運用を実施。
幸い島には食糧になる海亀や野鳥が豊富で、薪の供給源となる森林や、水源には事欠かず、漂流中の苦労に比べれば、格段に生活水準が向上していきました。
船を一艘、みんなで造ろう!探索の結果、この島は無人島であることを確認、また別の場所に漂着していた難破船の残骸を発見、いつか帰るために新しい船を造る資材として回収・確保しました。
もちろん、先日沈んでしまった自分たちの船からも使えそうな廃材はできるだけサルベージして、来るべき日に備えます。
「旦那、これだけ資材が集まればみんなで乗れる船一艘、何とか造れるんじゃねぇか?」
「うむ……そうじゃな。よし!やってみよう!」
無人島の探索も一通り済ませ、自分たちの生活に必要なインフラもある程度ととのってきた頃、いよいよ長右衛門たちは船の建造に着手します。
もちろん、内地のように十分な資材はありませんが、それでも知恵を振り絞って試行錯誤と創意工夫を繰り返し、ついに6人が乗り組める四反帆(帆の幅約3m)の船一艘が完成したのは、島に上陸してからおよそ50日後の寛文十1670年4月8~10日ごろと推測されています。
「ばんざーい!」
さぁ、船はできました。次はみんなで海亀や魚を目一杯に獲ってその肉を干物にし、保存食を蓄えました。これでしばらくは航海に耐えられるでしょう。
いよいよ出航!長右衛門たちの運命は?そして、いよいよ出航の時を迎えました。目指すは北西(※北東の誤り)に見える、あの島(現:小笠原諸島・父島)です。
「みんな……準備はえぇか?」
通常の航海であれば、その日の内に渡れる距離です。長右衛門たちの船がそれに堪えうるか否か、まさに「みんなの努力の試金石」と言えるでしょう。
「おぅ……親方、見ていてくれ!」
島の土となった勘左衛門に後ろ髪引かれる者もいましたが、ここで退いては男が廃る。親方に顔向けできません。
「よぅし……野郎ども、帆ぉ上げろ!」
「「「「おうっ!」」」
かくして寛文十1670年4月11日ごろ、勘左衛門の霊に見守られながら、長右衛門たちは島を後にしたのでした。
【続く】
※参考文献:田中弘之『幕末の小笠原―欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』中公新書、1997年10月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

