女性関係にルーズな吉宗ゆえ?将軍・徳川吉宗の”落とし子”と称する者が巻き起こした「天一坊事件」とは? (2/3ページ)

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そして、それを聞いた浪人たちが天一坊の元に集まり、仕官させるために金品を貰い受けることをしていました。

このことを不審に思った浪人、本多儀左衛門は行政や裁判などを取り仕切り、警察権も統括していた関東代官の伊奈忠逵(いな-ただみち)に報告します。

忠逵は天一坊を担いでいた者たちを尋問し、このことを上司の勘定奉行、稲生正武に報告します。

そして、天一坊のことを聞いた吉宗は「この者のことを知っている」と言ったので、忠逵は天一坊を慎重に調べることにしました。

徳川吉宗/Wikipediaより

吉宗は体が丈夫で豪快な性格だったので、将軍になる前に多くの女性と関係を持ったとしても不思議ではありませんでした。このことは幕府でも承知の上だったようです。

天一坊は果たして吉宗の御落胤?

享保14年(1729)になると忠逵は天一坊を捕らえます。忠逵によって天一坊は「吉宗様からお腰物を貰っている」という嘘をついていたことがわかりました。

このことによって天一坊は吉宗の御落胤ではないことが判明し、同年4月に品川・鈴ヶ森刑場で獄門に処されました。

この事件は天一坊事件といい、『大岡政談』に収められているので、大岡忠相が裁いたと思われがちです。

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