横浜銀蝿「中森明菜ちゃん、ピンク・レディーさん、三原じゅん子さん…」今だから話せる80年代秘話

日刊大衆

横浜銀蝿「中森明菜ちゃん、ピンク・レディーさん、三原じゅん子さん…」今だから話せる80年代秘話

 80年代を席巻したロックンロール・バンド「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL RETURNS」が、結成40年を迎える2020年にオリジナルメンバーの4名で「横浜銀蝿40th」として完全復活! これを機に集結した嵐(64)、翔(61)、Johnny(61)、TAKU(59)が、40周年の思い、そしてデビューから黄金時代の思い出を激白!!

――横浜銀蝿は、1980年9月21日、キングレコードから『横須賀Baby』でデビューした。革ジャンにドカンにサングラス、といったコワモテのアンちゃん4人組は、まず、どういう形でロックンロールを始めようと思ったのか。

嵐 俺は目立ちたいし、女にモテたいから暴走族をやってたのに、ある年に道交法が変わって走れなくなった。目立てばいいという感覚だったから、仕方なくバンドを始めたんだ(笑)。

TAKU 僕は、音楽雑誌にメンバー募集の広告を出したら、嵐さんから電話をもらった。「俺は横浜でバリバリにやってるロックンローラーだから、俺についてくれば天下取らせてやる!」って言うので、そりゃすげえや! と思って会いに行ったんです。横浜でロックンローラーっていったら矢沢永吉さんじゃないですか? だから、待ち合わせの大森駅で永ちゃんを探したんだけど、いなくて(笑)。来たのは喧嘩専門!みたいな人で、ガクッと来たけど、その日からですよ。

Johnny 俺と翔くんは高校の同級生で、別のバンドを組んでいた。

TAKU 嵐さんと俺は別のバンドでやっていて、嵐さんだけはユタカプロっていう事務所に入っていたんだけど、そのとき、テレビ出演の話があった。だけど出演の1週間前に喧嘩して、メインヴォーカルとリード・ギターをクビにしちゃったんですよ。

翔 それで俺とJohnnyが呼ばれたんです。いきあたりばったりだけど、これで4人が集まった。みんな、最初からロックンロールが好きで。俺が一番、影響を受けたのはチャック・ベリー。

嵐 俺は、サウンド面ではダウン・タウン・ブギウギ・バンドを意識していたけど、詞の世界は吉田拓郎さん。拓郎さんの詞って温かくて好きなんだ。

TAKU ビートルズとキャロルだね、やっぱり。

Johnny 最初は、キャロル・キングやカーリー・サイモンのようなアメリカン・ポップスが好きでしたが、あるとき、『リブ・ヤング』に出ているキャロルを見て、ひっくり返った。こんなカッコいいバンドが日本にいるのかと。キャロルの影響は大きいね。

TAKU 矢沢さんに関して言えば、俺は高校生のとき、『成りあがり』を読んで、アンダーラインを引いていたぐらい好きでした。プロになってから、矢沢さんに手紙を書いたもん。ずっと憧れていて、おかげさまで今、矢沢さんと同じベースを弾いています、って。

翔 矢沢さんはいまだに憧れの人。音楽ではタイマンを張りたいから、永ちゃんには負けねえぞ! って気持だけど、エンタテインメントとしてみたら、あの年であのカッコよさを維持しているロックンローラーって、いないよね。

――80年9月にデビューした横浜銀蝿は、年が明けて81年、2曲目の『ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)』が爆発的なヒットとなり、ブレイクを果たす。彼らがテレビの歌番組に出演するようになったのも、この頃だ。

Johnny『ツッパリ〜』をリリースしてすぐ、『夜のヒットスタジオ』に出演したら、翌日、レコード会社からバックオーダー(レコード店の注文)が4桁になったと聞かされたんです。そのあと、『ザ・ベストテン』の〈もうすぐベストテン〉のコーナーに出たら、その翌日は5桁になっていた。

TAKU テレビに出るって、すごい効果があると思ったね。俺たち基本は出たがりだから、テレビで歌うのは全然抵抗なかった。

翔 あの頃、フルで歌えなきゃテレビに出ませんっていうバンドが多かった中、1コーラスでもいいから出たがってるんだもん。そもそも3分もない短い曲ばっかりだし(笑)。

TAKU アイドル雑誌にも、よく出たよね。

嵐 最初は『プチセブン』が特集ページを作ってくれて、それから頻繁に出るようになった。たしか『平凡』の表紙にもなったことがあるけど、柏原芳恵ちゃんと一緒に載るっていうから、喜び勇んで撮影に行ったら、別撮りなんだよ(笑)。がっかりしたなあ。

■中森明菜ちゃんはとてもいい子だった

TAKU 中森明菜ちゃんは、曲を提供したのもあるけど、とてもいい子だった。『ベストテン』やラジオ番組でも一緒になったり。

翔 俺が覚えているのはピンク・レディーさんたち。俺らと入れ替わりに解散する時期で、『ザ・ベストテン』で一度だけ、一緒になったんですよ。大興奮したけど、銀蝿って写真を撮られるときも、ライブでも、メンバーの並びは向かって左からTAKU、嵐、翔、Johnnyって決まってるんです。だから、絶対に俺の隣には誰も来ない(笑)。ピンク・レディーさんのときもTAKUの横にケイちゃんが座って、もうニヤニヤしてましたよ。センターのつらさですよね。

Johnny でも特別、芸能人やアイドルと仲良くするなんてことはなかったね。

翔 松本伊代ちゃんとは仲良しだったけど、個人的にどこかに行くとかはまったくない。

TAKU 俺たちは本名も、どこに住んでいるのかも明かさない。サングラスで顔もよく分からない。つまり、人間じゃないわけ(笑)。誰と知り合っても、それを崩さなかったから、他の人との交流はなかった。

Johnny ただ、アイドルの人たちから曲のオファーは多かった。

翔 西城秀樹さんには僕が書いた。明菜ちゃんにもTAKUと2人で、ちょっと色っぽい曲を書いたり。

TAKU 三原じゅん子さんもあった。そういえば、たしか翔くんが、じゅん子さんに教育的指導をしたの覚えてる?

翔 えっ、記憶にないよ。

TAKU じゅん子さんと何かの仕事で一緒の控室にいて、彼女がマネージャーに「コーヒー持ってきて」というから、翔くんが「自分で取りに行きなよ」って説教したんですよ。

Johnny それも、仲が良かったから言えることだよね。レコード会社も一緒、しかもデビューの年月日も一緒だったから。

翔 彼女はまだ若くて、ツッパリキャラで売ってたから、それがつい出ちゃったんだろうね。もちろん仲が良かったから俺も言えたんだし、その後も彼女とはVシネマで共演したり、今もずっと仲良くしてるから。

■今のEXILEがやっていることと一緒だね

――横浜銀蝿がブレイクした81年は、校内暴力や非行問題で、中学・高校が荒れていた時代。彼らのファン層は、そういった不良たちだったのだろうか。

TAKU  最初は暴走族みたいなのがついてきていたけど、後半は出待ちも現れて、普通の10代の男女も多かったよ。

翔  一度、ライブの最前列に白ラン(純白の学生服)を来た4人組が座って、じーっと睨んでることがあって。なんだ、こいつら、これは一戦交えなきゃならんか、と思ったけど(笑)。

嵐  集会じゃないんだから!

翔  でも、よくよく考えたら、チケットを相当早くに買わないと最前列には座れないよね。おまけに演奏中に足でリズム取ってるの。あ、こいつらファンなんだと(笑)。そんないかつい奴らもいたし、後ろの席では真面目な子たちも楽しんでくれていた。だけど1年目は名前とイメージが先行しているから大変だった。たとえば静岡でライブをやると、県境に入った途端、静岡県警のパトカーが俺たちのバスにつくんですよ。補導員の先生たちも会場の周辺にウロウロしていたり。

TAKU  それで対話集会が生まれたんだよね。

翔  対話集会はねえ(笑)。俺はお客さんのヤジとかを拾うのが好きで、あるとき、高校生ぐらいの男の子が「どうせ俺、明日から停学だし」みたいなことを言い出して。俺も「何それ? 銀蝿のライブ行くと停学なの?」か聞いて。スタッフもその高校生にマイクを渡して、コンサートを中断して、そいつの話を聞いてやったの。それがきっかけ。

嵐  俺も事務所の社長も、面白いから毎回やろうよ!って。それが噂になって、雑誌にも載り、対話集会って言葉も生まれた。

翔  それ以降は何でもお悩み相談室になってさ(笑)。

TAKU  最初は15分ぐらいだったのが、最後のほうは45分ぐらいやってたよね。傍から見ていると、後半は翔くんのしゃべりもだんだんこなれてきて、金八先生みたいになっていった(笑)。

翔  一番困ったのは、彼氏ができないけどどうしたらいいかとか、ノーマルな普通の悩みだよね。“まあ、時期が来れば”とか適当なことを言って(笑)。そうやって人気者にはなったけど、その実、一番女の子にモテたのは……。

嵐  Johnnyだよね!

Johnny  いや、唯一ヒゲを生やしていなかったからだよ。俺はティーン担当で、大人の女性陣はTAKUに行っていた。

嵐  俺は小学生ばっかりだったな(笑)

翔  でも、バレンタインデーになると、事務所にチョコレートがトラックで何台も来ましたよ。

嵐  しかもJohnnyは律儀に全部、そのチョコを食べていたもんな。

翔  でも、そうやってジャニーズ事務所みたいに、バレンタインデーにトラックが横づけになるでしょ。それをメンバーごとに分けるんだけど、当然Johnnyがすごく多い。だけど、思ったより嵐さんも多いな?  と思っていると「横浜銀蝿さまへ」って来てるのも全部、自分のところに持ってっちゃったんですよ。

嵐  本当の二番手は俺だったんだよ!(笑)。

――横浜銀蝿は、紅麗威甦(ぐりいす)や嶋大輔といった後輩たちや、アイドルの岩井小百合をデビューさせるなど、弟分、妹分と呼ばれるアーティストを次々と世に送り出していった。彼らは“銀蝿一家”と総称されていたが、この発想はどこから来たのだろうか。

嵐  銀蝿を追っかけてくる奴らが多くて、彼らは俺たちみたいになりたいと思っているわけ。だったら良さそうな奴らを集めてバンド組ませよう、という発想から始まっているんですよ。

翔  今のEXILEがやっていることと一緒だね。

嵐  それで杉本哲太を中心に紅麗威甦を組ませたり。嶋大輔はライブでスカウトした。俺は背が低いから、デカい奴に憧れるところがあって、哲太も大輔も、その後に入った矢吹薫もみんな180センチ以上あったから、それだけでOK。

TAKU  岩井小百合ちゃんをマスコット・ガールにしたり。

翔  ユタカプロも、銀蝿が入る前はアイドルグループを扱っていた事務所なんです。だから俺たちが入ったとき、社長はおかしくなったんじゃないかと言われた(笑)。あまりにも毛色が違うから。むしろ小百合ちゃんのプロモーションは、お手の物だったよね。

■ツッパリと半グレの違いは?

――横浜銀蝿の時代はツッパリの全盛期。その後、ヤンキーなどと名称は変わり、今では“半グレ”なる輩も出てきている。メンバーたちにツッパリと半グレとの違いは?  ツッパリとは何か?  その哲学を聞いてみた。

Johnny  俺たちは、昔から不良少年には憧れたけど、非行少年にはなりたくなかったから。人に対する最低限のルールは守ってきた。そこが違うところかな。

TAKU  ツッパリとは、やせ我慢のことだよ。だって俺たち、暑いのに革ジャン着てるし。もちろん喧嘩に行くのも怖いし、バイクで、走ってても怖いよ。その中でやせ我慢の美学を守りながらやってきたから。自分の欲望だけで暴れて、捕まって……みたいなことは、やせ我慢とは違うでしょ?

翔  デビューのとき、オリジナル曲で最後まで行けるのかと言われて、俺らは突っ張ったわけです。大人たちは、それを続けることは難しいと教えてくれたけど、それでも我が道を行きたいと思った。それは一つの覚悟だし、それがツッパリの精神だと思う。

嵐  ツッパリってすごく難しいよね。要は押し出しってことでしょ?

TAKU  相撲かよ!

嵐  前に出るってことだよね。それで、ヤバくなるとうっちゃるじゃない?  今の俺らは、うっちゃりもありかな(笑)。

翔  前に出ましょうよ!

――結成40周年にあたって、オリジナルメンバーがそろう横浜銀蝿。2020年3月からライブツアーを開始。ツアー開催に先駆け、2月19日にはニューアルバム(タイトル未定)の発売も決定した。最後に、その意気込みを聞いてみた。

嵐  今回はJohnnyが加わって、オリジナルメンバーがそろったのが大きいよね。

Johnny  今まではタイミングが合わなかったけど、ディレクターだった水橋さんが去年亡くなられて、そのお別れ会で翔くんと久しぶりに会って、やることになった。全然、ギターに触ってなかったから、3か月猛練習しました。

TAKU  Johnnyが参加してくれたことで、役者がそろったよね。来年は僕も還暦で、しかも横浜銀蝿デビュー40周年でもあり、今から楽しみにしています。

翔  この巡り会いに感謝したいね。銀蝿が83年に終わったとき、周囲から「まだまだ、やれるじゃん?」っていう声が多かった。そのとき、じゃあな!  と別れた奴らの前に、またこの4人で現れて、メッセージとともに俺たちの今の音楽をぶつけたいな、と思っていたんです。だから今回も、「銀蝿、やるじゃん!」ていうアルバムとツアーにしたいと思っています。

TAKU  対話集会もやる?

翔  いやいや、だって悩みが老後とか終活とか、“金貸してくれ”とか、そんなことになるよ!(笑)。でも、一応検討します!

Johnny  期待してくれているファンも多いと思うけど、僕はレコード会社の現場制作から管理職になって、今まではやらなきゃいけない仕事も多かった。今はやりたいことをやろうと思ってる。なんと言われても、自分のやりたいことをやる。かっこいいJohnnyを見せられるよう、頑張ります!

嵐  還暦オヤジたちのツッパリをお見せしたいですね!  60歳過ぎたオヤジでも、これだけできるぞってところを、今回は特に若い世代にも見てほしいね。

全員  夜露死苦!!

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