今はなき隣組による葬儀の助け合い。死が繋いだ隣近所との絆。

心に残る家族葬

今はなき隣組による葬儀の助け合い。死が繋いだ隣近所との絆。

葬儀も現代では葬儀社に依頼し、取りしきる形式が主となっているが、昭和の昔にはいわゆる「隣組」の役割が発揮された。隣組、隣近所がまだ生きていた頃は、葬式の仕切りや手伝いなどは、町内の助け合いで行われていた。幼かった自分たちも、より年下の子の面倒をみるなどの役割が多くあった。現代において葬儀も直葬や散骨など、ますます隣近所の出番はなくなっている。隣人が人知れずこの世を去っていることも知らないことも珍しくない時代である。

■隣組とは?

隣組とは1940年の内務省訓令に基づいて町内会などの下に設けられた地域組織であった。日中戦争後「国民精神総動員運動」を開始した政府が、地域的日常活動の必要性を認識し、江戸から明治にかけて存在していた五人組や十人組などといった隣保組織を参考に10世帯内外の小規模組織が結成。
生活必需物資の配給や軍人遺家族援護、防空、消火の訓練などの相互扶助的な日常活動が町内会、隣組などを通じて行われるようになる。後に大政翼賛会の下部組織として位置づけられたが、終戦後マッカーサー指令に基づいて廃止。しかし、町内会―隣組のコミュニティ機能は戦後から現代に至るまで、希薄化しつつも継続している(参照・ブリタリカ国際大百科事典)。

■大ヒットした「隣組」

大政翼賛会が結成された1940年にリリースされた「隣組」(作詞・岡本一平作詞、作曲・飯田信夫)は、軽快なメロディと親しみのある歌詞で大変な人気となった。「格子を開ければ顔馴染み 廻してちょうだい回覧板」「御飯の炊き方 垣根越し 教えられたり 教えたり」「何軒あろうと 一所帯」と、地域の連帯の魅力を描いたものである。

この曲の替え歌がドリフターズのコント番組「ドリフ大爆笑」のテーマ曲となり、1980年代から2000年代まで長く国民に親しまれた。その替え歌も「じいちゃんばあちゃん」から「お孫さん」まで、家族全員がテレビの前に「揃ったところではじめよう」という、これも家族の連帯を歌ったものであった。筆者は未確認だが、最近ではCMソングにも使用されているという。形を変えつつも、隣近所の関係が親密であった頃の、映画「Always~3丁目の夕日」などに代表される、いわゆる昭和の原風景を伝え続けているといえる。



■隣組の負の側面

一方で、隣組という呼称はあまり愉快ではない向きもある。隣組制度は戦時体制下における国民統制の末端を担っていた。つまり本来は国民の意思を統制し、共産主義など国家に反抗的な思想を持つ者を浮き彫りにさせるような相互監視システムとして起用されていた面もあるからだ。隣近所の関係が密であるということは、互いに監視し合う関係でもある。

リベラル的な見方をするとそういうことになるのだが、隣組制度が成り立つには昔ながらの近所関係が確立してる故である。現代のタワーマンションでこの制度を起用するのは難しいだろう。良くも悪くも「絆」そのものが存在していからこそである。

■現代社会は孤独か

現代は人間関係が難しい時代である。隣組どころか隣の住人が何をしているのか、どんな人なのかすら知らない。窓は閉めきられ、ミラーレースカーテンで覆いをしているのが普通の状況だ。確かに瞳に映った風景から自宅を特定される時代に、むやみに個人情報を晒すのは危険である(注1)。過剰で閉鎖的な「ムラ社会」の弊害もある。煩わしいのも事情だろう。しかし、それが孤独を生む結果にもなる。

■東京はあんまり寂しくないと言ったマツコ・デラックス

SNSだけでは孤独は埋められない。このインターネット時代でもなお、例えば育児ノイローゼになるのはなぜなのか。ネット上に話を聞いてくれる友人はいても、その人の「体温」がないからだ。一方、マツコ・デラックスはテレビ番組で次のようにコメントしていた。

「東京って、あんまりさみしくない。孤独を感じなくて済む。寂しいと思わないんだよね、東京って」(注2)(

一理はある。溢れるモノ、情報、楽しいことはたくさんある。しかしそれで終わるだろうか。病気になればもちろんのこと、日常においてもふと、一人に気づく時、寂しさを覚えることはないだろうか。

「隣組」制度の発祥に負の側面はあるにせよ、戦後に育った者たちには関係のないことだった。家族が亡くなって憔悴しきっている時に、近所の親しい人たちが慰めてくれたり、世話をしてくれることがどれほど救いになったことかしれない。「一人」ではなく「独り」になった時、本当に孤独ではないとその時に言えるだろうか。

■監視か放置か?監視カメラがお天道様の役割を果たしている?

相互監視というが、むしろ現代は放置しすぎな感がある。周囲の目が気になることは立ち居振舞いに気を配るようになるということだ。これも最近では死語になりつつあるが「お天道さま」という言葉がある。大人は子供に「お天道さまが見ているよ」と、道に外れたことをしてはいけないと戒めた。いくら隠れて悪いことをしても天はいつだって見ていると。「自由」や「個」の尊重が手放しでよいわけではない。

いまは防犯カメラがその役目を担っているといえようか。隣近所の視線は現代では煩わしさの象徴かもしれない。しかしその視線は多様だ。噂好きの好奇な目もあれば、子供の成長を見守る温かな目もある。防犯カメラの無機質な目は単なる行動の記録である。なんとも寂しいことではないか。

■「死」が生む「絆」

映画やドラマなどでみられるような風景は確かに存在した。勝手口に鍵などなく、近所のおばあちゃんが醤油や味噌をもらいにくるのは日常だった。筆者の地域では告別式の間、故人の家に残り留守を守る「留守番」役が隣組の中からひとり選ばれた。顔見知りといえど、他人を家に残すのである。信頼、信用などと気張ることではない。それが当たり前だったのだ。先述したように、子供にも、より小さな子の面倒をみるなどの仕事があった。かつての葬儀は隣近所同士の助け合いの葬儀であった。死という悲しみが新たな絆を生んできたともいえる。この相互無関心の時代において、単なる懐古主義では済まされない見直すべきことである。

注1:NHK 首都圏ニュースWEB 10月08日 16時51分配信
9月1日、東京・江戸川区のマンションに帰宅したアイドル活動をする20代の女性に対し、わいせつな行為をしてけがをさせたなどとして、26歳の男が10月8日起訴された。男は「SNSに投稿された女性の顔写真の瞳に映る景色を手がかりに住んでいる場所を特定した」と供述している。
注2:2019年10月12日放送「マツコ会議」(日本テレビ系)

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