田中角栄「怒涛の戦後史」(12)元首相・佐藤栄作(上) (1/2ページ)

週刊実話

 学歴は尋常高等小学校卒、それでも明敏な頭脳、卓越した政治力、「学歴はどうでもよいが学問は不可欠」として人一倍の勉強家、加えて持ち前の人が寄ってくる陽気な性格が相まって、田中角栄は政界の頂を目指して昇龍かくを思わせるように、出世の階段を駆け上がっていった。

 その田中が炯眼だったのは、陣笠代議士にして自民党政治を動かしているのが、高級官僚出身者のグループであることを見抜いたことにあった。その中心にいたのが外務省出身の吉田茂、その右大臣、左大臣格だった大蔵省出身の池田勇人、鉄道省(のちの運輸省)出身の佐藤栄作であった。そうした優秀な官僚出身者のグループは「吉田学校」と言われ、田中はそこにもぐり込むことに成功した。

 池田が政権を取ると、そこでは「大物」へのスプリング・ボードである大蔵大臣ポストを得、そのあと佐藤に政権が移ると蔵相留任、間もなく党を掌握し、天下取りには不可欠とされる自民党幹事長ポストへと昇り詰めたのである。その裏では、佐藤派の「代貸」としてひたすら汗をかいたことが、ついには天下をたぐり寄せることにつながったと言ってよかった。

 その佐藤は、昭和39(1964)年11月、池田がガンを煩い、再起不能の判断のもとに内閣総辞職、後継に佐藤を指名したことで首相の座に就いた。佐藤は、第1次内閣では官房長官を除き、他の閣僚を留任させた形でスタートさせた。事実上、政権を譲ってくれた池田の顔を立てた布陣であった。田中もまた、池田内閣での蔵相をそのまま引き継いだ。

 佐藤が一方で、内閣の屋台骨たる蔵相ポストに、あえて田中を留任させたのは、田中が佐藤派の「代貸」として、派閥の“台所”、すなわち資金の面倒を一切担っていたことが一つ、もう一つは池田内閣の蔵相として経済、財政運営に力量を見せつけたことがあった。

 田中が佐藤内閣の蔵相となった頃、経済において国際収支は好調だったが、国内は不況、株式相場も昭和38年以降の低迷を引きずっていた。そのさなかに、時に証券業界の三役クラスだった山一證券が倒産危機に陥るという事態が発生した。

 「山一」が倒産となれば国民生活、景気に計り知れない影響が出ることが予測された。大蔵省もこれを深刻に受け止めた。

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