豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】

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豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】

これまでのあらすじ

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば、ご存じ天下人・豊臣秀吉(ひでよし)の後継者ですが、実はもう一人「秀吉公認の豊臣秀頼」がいるのです。

彼は戦国時代、尾張国の守護・斯波義統(しば よしむね)の次男として生まれ、謀叛によって父を失うと織田信長(おだ のぶなが)の家臣・毛利十郎(もうり じゅうろう)に養子入りして元服、毛利長秀(もうり ながひで)と名乗ります。

その後、桶狭間の戦いで初陣を飾って以来、赤母衣衆(あかほろしゅう。信長の親衛隊)として数多の戦場を渡り歩き、武功を重ねていくのでした。

これまでの記事

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】

「甲斐の虎」武田氏と「越後の龍」上杉氏に反撃開始

織田・武田・上杉勢力概略図。

天正三1575年5月21日、長篠の戦いで武田勝頼(たけだ かつより)の軍勢を撃破した織田・徳川連合軍はそれまで東の国境を脅かされ続けていた劣勢から攻勢に転じ、長秀は信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)に従って東美濃の岩村城(現:岐阜県恵那市岩村)へ出兵。

11月10日、兵糧攻めに耐えかねた武田方が夜襲を仕掛けて来ましたが、長秀らの奮戦によってこれを撃退。武田方の遠山五郎友長(とおやま ごろうともなが)、澤中左忠太光利(さわなか さちゅうたみつとし)、飯妻新五郎(いいづま しんごろう)、小杉勘兵衛(こすぎ かんべゑ)といった猛将たちを討ち取る大手柄を立てました。

続く天正六1578年10月4日には、越中国で上杉軍(※)と戦っている斎藤新五郎利治(さいとう しんごろうとしはる)への援軍として月岡野(現:富山県富山市)で敵方の勇将・河田豊前守長親(かわだ ぶぜんのかみながちか)や椎名小四郎景直(しいな こしろうかげなお)らと戦い、360の首級を奪(と)り敵兵3,000人以上を捕虜とする大戦果を上げています。

(※)永らく織田軍を苦しめ続けていた上杉謙信(うえすぎ けんしん)は同年3月に急死しており、当時、上杉の本拠地・越後国では上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)による跡目争い(御館の乱)で混乱していました。

この勝利によって織田軍は北陸戦線の主導権を握ると共に、それまで勝てなかった「越後の龍(謙信の異名≒上杉軍)」に勝利できたことにより、その精強さを天下に知らしめる契機となりました。

「甲斐の虎」を退治する毛利長秀(イメージ)。

かつて甲斐の虎と呼ばれた武田軍、そして越後の龍と恐れられた上杉軍に対する勝利に大きく貢献した長秀は、信長の覚えますますめでたく、ついに武田勝頼に止めを刺す「甲州征伐」にも従軍します。

養子・安藤源五の初陣

ところで長秀には男子がおらず、かつて信長が美濃国(現:岐阜県南部)の斎藤竜興(さいとう たつおき)を攻略した永禄十1567年、斎藤家旧臣で西美濃三人衆の一人・安藤伊賀守守就(あんどう いがのかみもりなり)が一族の中から、戦で父を亡くした遺児・源五(げんご)を養子に出してくれました。

安藤一族にしてみれば体(てい)のよい厄介払いor口減らしを兼ねて、信長のお気に入りである長秀と誼(よしみ)を通じることで織田家に取り入ろうとしたのかも知れませんが、長秀にしてみればありがたく授かった我が子です。

かつて父・毛利十郎がそうしてくれたように、愛情をもって厳しく鍛え上げ、やがて共に戦場を駆け巡るようになりました。

源五の生年は不明ですが、養子入り時点で0~5歳前後と仮定した場合、天正十1582年で15~20歳前後となるため、同年の甲州征伐(天正十1582年2月3日~3月11日)が初陣となった可能性も考えられます。

高遠城で武田の猛将・仁科五郎盛信を攻略するが……

さて、長秀は織田信忠に従って攻略した信州伊那郡の大島城(現:長野県下伊那郡松川町)に在番。大島城は南信州の重要拠点で、長秀はここから南の徳川軍と連携をとりながら、東に残る武田軍に睨みを利かせます。

信玄公の名に恥じぬ戦いぶりを見せた仁科五郎盛信。Wikipediaより。

しかし、同じ伊那郡の高遠城(現:長野県伊那市高遠町)に3,000の兵で立てこもる武田の猛将・仁科五郎盛信(にしな ごろうもりのぶ。武田信玄の五男)が激しく抵抗、50,000の兵をもってなお攻めあぐねていた信忠への援軍として大島城から出陣。その傍らには源五の姿もありました。

「父上……この源五、毛利の子として家名に恥じぬ槍働きをご覧に入れます!」

「おぉ頼もしや頼もしや……しかし不惑(=40歳)を過ぎたとて、父もまだまだ負けてはおらぬぞ!」

「はい、一日も早く父上の背を越えられるよう、精進致しまする!」

永年にわたり手塩にかけて鍛え上げた愛しい我が子と念願の初陣。共に轡(くつわ)を並べて戦える日を夢に見ていた長秀は、感慨も一入といったところでしょう。

……しかし、これが源五にとって最初で最後の戦となりました。

「源五……っ!」

果たして高遠城は攻略できましたが、敵もさるもの、盛信主従は決死の抗戦で武田の意地を見せつけて、織田軍にも少なからぬ犠牲を払わせしめます。

源五もその一人として、若い命を戦場に散らせたのでした。主君のために身命を賭するは武士の習いながら、やはり親として悲しまずにおれません。

桜咲く春、念願の城主となった長秀だが……(イメージ)。

こうした歴戦の武功によって武田家の滅亡後、長秀は信州の国人衆・坂西(ばんざい)氏より奪取した飯田城(現:長野県飯田市)を与えられ、晴れて一城の主となったのですが……。

【続く】

参考文献

谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年

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