豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【五】 (2/2ページ)
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豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】 「元祖」豊臣秀頼の誕生天正十三1585年、これまでの功績によって秀吉の推薦を受けた秀頼は、侍従(じじゅう。天皇陛下の側近)に叙任されて内裏(だいり)への昇殿が許される「殿上人(てんじょうびと)」となりました。
と言っても実際に朝廷へ付きっきりではなく、その後も秀吉の側近として中国の毛利(もうり)氏や四国の長曾我部(ちょうそかべ)氏を従えるべく工作活動を行い、臣従を拒否した九州の島津(しまづ)氏を討伐するべく出兵した天正十五1587年には、秀吉に随行しています。
聚楽第を一目ご覧になろうと行幸される後陽成天皇の御輿。堺市博物館蔵「後陽成天皇聚楽第行幸図」江戸時代より。
そして天正十六1588年、秀吉の邸宅と政庁を兼ねた聚楽第(じゅらくだい)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう。第107代)が行幸(ぎょうこう。天皇陛下がお出かけになること)されると、そのめでたい記念と供奉(ぐぶ。お供すること、接待)の功労に対して「豊臣」「羽柴」の姓を与えられました。
この頃の秀吉は機嫌がいいと自分の姓「羽柴」、そして天正十四1586年から名乗るようになった新しい「豊臣」の姓を大盤振る舞いすることがあり、本能寺の変から逸早く秀吉に従い、貢献してきた秀頼もその余慶に与ったのでしょう。
百姓から身を立てて、関白にまで出世を遂げた自分一代で創始した新しい姓がよっぽど嬉しくて、みんなに使わせることで自分の偉大さを噛み締めたい……そんな思いがあったのかも知れませんね。
ちなみにこの頃、秀頼は「岩倉侍従毛利河内守」と名乗っており、秀吉から尾張国の岩倉城(現:愛知県岩倉市)を与えられていた城持ち大名であったと見られています。
かくしてここに「豊臣秀頼」が誕生した次第ですが、後に秀吉の跡取りとなる有名な方の秀頼(拾丸)はまだ生まれていません(文禄二1593年8月3日生まれ)から、むしろこっちの方が元祖と言えます。
小田原征伐の武功により、念願の飯田城主へ返り咲くさて、天下統一の総仕上げとして秀吉は天正十八1590年、関東の覇者である北条(ほうじょう)一族に矛先を向け、その征伐に乗り出しました。
この戦で、秀頼は若いころ共に信長の赤母衣衆として轡を並べた前田又左衛門利家の率いる北方軍に加わり、北条一族の守備していた松井田城(現:群馬県安中市)、鉢形城(現:埼玉県大里郡寄居町)、八王子城(現:東京都八王子市)を次々に攻略してから本軍に合流。
そして20万以上と言われる大軍で北条一族の本拠地である小田原城(現:神奈川県小田原市)を海と陸から完全包囲してしまいます。
およそ半年以上にわたる戦いの末、東北の雄・伊達政宗(だて まさむね)が北条一族を裏切ったことによって逆転の望みを絶たれた北条左京大夫氏直(ほうじょう さきょうたいふうじなお)が降伏。日本国内の反・秀吉勢力が(表向きは)ことごとく滅び去り、秀吉の天下統一が果たされたのでした。
その後の論功行賞で、秀吉は忠功ある臣下に対して「恩賞は望みのままにとらせようぞ!」と得意の絶頂。そこで秀頼はかねての念願であった飯田城に戻れるよう願い出ます。
「何じゃ、そんなので良いのか……まぁ、もちろん良いぞ!」
という訳で、秀頼は「本能寺の変」以来8年ぶりに飯田城へ返り咲き、晴れて7万石(後に10万石)の大名となったのでした。
「源五(天正十1582年の甲州征伐で討死した秀頼の養子)よ……そなたと共に立てた武功の城を、父はようやく奪還したぞ!」
ちなみに、かつて秀頼から飯田城を奪った下条頼安は、共謀者である小笠原信嶺(おがさわら のぶみね)と仲を違えて暗殺され、その信嶺は家康に従って北条氏亡き後の関東へ移住。以降もちょくちょく秀頼と関係があったものの、さぞや気まずかったろうと思われます。
ともあれ念願を叶えた秀頼は、意気揚々と飯田城へと赴いたのでした。
【続く】
参考文献
谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



