身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【上】

令和元年10月28日、源義経(みなもとの よしつね)公没後830年を記念して、義経公らを御祭神としてお祀りする白旗神社(しらはたじんじゃ。神奈川県藤沢市)の境内に、義経公とその忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)の銅像が建立されました。

銅像は武者姿で颯爽と騎乗する義経公と、片膝をついて随従する弁慶の美しい主従関係が表現されており、同社では両名の功業を顕彰し、後世に伝えるシンボルとして期待されています。
義経公の最期と白旗神社の起こり
ご存じ義経公は平安時代末期、兄・源頼朝(よりとも)公に従って平家一門の討伐に多大な貢献を果たすも、その実力と人気によって自分の地位が脅かされることを恐れた頼朝公に追い詰められ、最期は奥州平泉で自害してしまいます。時は文治五1189年閏4月30日、享年31歳の若さでした。
そんな「悲劇のヒーロー」ぶりが日本人の同情を誘い、義経公の官位から「判官贔屓(はんがんびいき。立場の弱い者に肩入れしたがる心情)」という言葉まで生まれました。
義経公の首級は鎌倉・腰越に送られ、首実検(くびじっけん。首級が本人のものか確かめること)の後に海へ捨てられたところ藤沢の地に流れ着き、哀れに思った地元民がこれを埋葬(付近には義経公の首級を洗い清めたと伝わる井戸も残っています)。

そのことを知った頼朝公は、自ら討たせたとは言え弟を哀れに思い(あるいは祟りを畏れて)、義経公を源氏の守り神・白旗明神(しらはたみょうじん。白旗は源氏の軍旗=象徴)として近くの寒川神社(相模国一宮より勧請した分社)に合祀させ、それが現在の白旗神社となったそうです。
「義経公」の胴体が眠る判官森さて、義経公の首級が藤沢の地に眠っている一方で、残された胴体はどうなったのでしょうか。
伝承によると、義経公の胴体は判官森(はんがんもり。現:宮城県栗原市栗駒沼倉)と呼ばれる山に埋葬され、胴塚(どうづか。胴体を埋めた墓)には石碑や五輪塔などが残されていますが、少し考えるとおかしなことに気づきます。
そう、義経公が自害したのは奥州平泉の高館(たかだち。現:岩手県西磐井郡平泉町高館)なのに、どうしてわざわざ10数km以上も離れた場所に胴体を運んできたのでしょうか。

義経公が自害したと伝わる高館義経堂(左)と、境内の義経公供養塔(右)。
現代的な距離感覚で見れば(車で1時間ほどなので)そこまで離れた場所ではないものの、自動車もない当時の人たちが何の理由もなく他人の遺体をこんな遠方まで運ぶとは考えにくい(哀れに思った程度の動機なら、現場の近くに葬るのが普通)です。
それには何か(胴体を運んでくるだけの)理由があるのではないか?そう思って調べたところ、ある仮説が浮上してきました。
【続く】
参考文献:上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』文英堂、2004年9月
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