身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】

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身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】

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身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【上】

時は平安時代末期、文治五1189年に非業の死を遂げた源義経(みなもとの よしつね)公

義経公を祀る白旗神社の境内に建立された義経公の銅像(部分)。

彼の首級は鎌倉・腰越に送られた後、藤沢(現:神奈川県藤沢市)の地で白旗明神(しらはたみょうじん。現在の白旗神社)として祀られました。

一方、義経公の胴体は判官森(はんがんもり。現:宮城県栗原市栗駒沼倉)と呼ばれる場所に埋葬されましたが、義経公の自害現場である奥州平泉の高館(現:岩手県西磐井郡平泉町高館)から10数kmも離れた場所にわざわざ運んだ理由は何なのでしょうか……?

「義経公」の胴体を運んだのは「本当の兄」?

平安時代末期、判官森を含む一帯は沼倉小次郎高次(ぬまくらの こじろうたかつぐ)という奥州藤原氏の家人(けにん)が治めていました。

彼には杉目太郎行信(すぎのめの たろうゆきのぶ)という弟が義経公に仕えており、義経公と年齢が近い上に顔立ちや背格好がよく似ていたそうです。

俗説によれば、頼朝公に追われて奥州藤原氏に身を寄せた義経公を守るため、その影武者を買って出て高館で自害し、義経公本人は奥州よりさらに北の蝦夷地(現:北海道)へ脱出したとも言われています。

杉目太郎(行信、黄丸で囲った武将)。一ノ谷合戦では義経公に従って「鵯越(ひよどりごえ)の逆落し」を敢行したと言われる。

「平家討伐にあれだけ奇想天外な活躍をした(とされる)義経公なら、そのくらいの事はやりかねないorやってのけて欲しい」といった期待感や願望、また「こんな所で死なないで欲しい」という「判官贔屓(はんがんびいき)」も相まって、そうした伝承が各地で生まれたのでしょう。

もしこれが事実であったとすれば、高次が「義経公(実は弟・行信)」の胴体を引き取ってわざわざ遠い自分の領地まで運んだ=葬った理由に納得が行きます。

また、胴塚の石碑には義経公の名前と自害した日付に加えて「大願成就」と刻まれていますが、これは何の願いが成就したのか……もしかしたら、行信が「無事に義経公を逃がしおおせた」ことを意味しているのかも知れません。

御家人みんなが「義経公」の首級に涙……その理由は?

また、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記述にも不可解な点があります。

義経公が自害したのは文治五1189年閏4月30日、その首級が鎌倉・腰越に届けられたのは同年6月13日……いくら平泉が遠いと言っても、鎌倉までの道のりに1ヶ月以上もかかるのは、いくら何でも遅すぎです。

現代の太陽暦で言えばおよそ6~8月という暑い盛りでもあり、これではいくら酒(アルコール)に漬けて保存を図ったとは言え、鎌倉に着くころには首級も腐敗してボロボロになってしまうでしょう(まして当時の酒は、現代ほどアルコール純度が高くありませんでした)。

首実検に臨んだ和田義盛(わだの よしもり)や梶原景時(かじわらの かげとき)らは悪臭に顔を顰(しか)めながら、見る影もなくなった「義経公」の首級を検分したことでしょう。

腐敗しきって見る影もない義経公の首級に目を背ける和田義盛と、目を丸くする梶原景時(イメージ)。Wikipediaより。

「うむ……これは確かに九郎御曹司(くろうおんぞうし。義経公)の首級に相違あるまい」

「左様々々。もはやこれ以上の検分は無用、かかる逆賊の首級など疾(と)く打ち捨てよ」

……『吾妻鏡』ではこの様子を

「観る者みな涙を拭(ぬぐ)ひ、両衫(りょうさん)を湿(うる)ほす」

【意訳】義経公の首級を見た者は全員、涙を拭う袖の上着に留まらず、中の衫(さん。肌着)が湿るほど泣いた

としており、これは「平素さんざん憎んだ義経公でも、いざ亡くなってみるとその偉業が惜しまれたため」と解釈されがちですが、実際は「あまりの腐臭が目に染みて、涙が止まらなかった」だけという可能性もあります。

※義経公は戦上手、軍略の天才と称えられた一方で「マナー違反の卑怯な手段で勝っただけ」「みんなの手柄を独り占めしようとした」「頼朝公の弟であることを鼻にかける言動が目立った」など、御家人の間ではあまり評判がよくなかったそうです。

「……あやつは無事、逃げおおせたかのう……」弟の身を案じる頼朝公(イメージ)。

しかし頼朝公は内心「弟(義経公)を逃がしたい=生かしておきたいけど(義経公が御家人たちから憎まれていることもあるし)立場上そうは言えない」ことから身代わりを立てさせ、ただでさえ似ているその首級を判別できなくさせ、「死んだこと」にしたかったのかも知れません。

エピローグ

その後、「死んだこと」になった義経公がどうなったか……信頼できる史料は残されていませんが、北海道に渡ってアイヌの少女と恋に落ちたり、大活躍してアイヌの神と同一視されたり、はたまた大陸まで足をのばしてモンゴルの覇者チンギス・ハーンになったor成り代わったり……等々、様々な俗説が生み出されました。

アイヌ達の歓迎を受ける義経公の絵馬。鎧の胴に描かれた笹竜胆が源氏の御曹司たる証(奉納:藤原政展)。Wikipediaより。

どれも荒唐無稽な作り話とされていますが、いずれもその根底にあるのは「あの義経公なら、そのくらいのことはやりかねないorやってのけて欲しい」という期待感に他なりません。

今も眠る首級と胴体が、本当に義経公のものかどうか……その真相は、謎のままにしておいた方が、夢があって楽しそうです。

【完】

参考文献:上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』文英堂、2004年9月

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