渋すぎる!平隊士の身分を貫いた新選組の”仕事人”蟻通勘吾の美学【上】 (2/4ページ)
愛刀は播磨住昭重(作:弘化三1846年2月)、刃渡り二尺四寸(約90cm)余りと言われていますが、その根拠とされる『会津守護職様御預新選組御一等様御刀改控』という書物については信憑性に不安があるため、「そんな刀を使っていたのかも知れないな」くらいに思えばいいでしょう。
勘吾の同期入隊者には加賀国(現:石川県)の脱藩者で2歳年下の山野八十八(やまの やそはち。天保十二1841年生)がおり、二人とも剣術・胆力に定評があったそうです。
八十八は義経神明流の腕前に加えて「美男五人衆」に数えられるほどハンサムで、入隊して間もない文久三1863年8月、四条堀川の米屋に押し入った強盗の捕縛に当たった際、火縄銃で撃たれても恐れることなく任務を完遂しました。
年齢の近い同期入隊ということで、お互い多少なりともライバル意識があったろうところ、早々にリードされてしまった感のある勘吾。
しかし、入隊2年目にして逆転のチャンスが巡って来たのでした。
池田屋事件で大奮闘、報奨金十七両を受け取る京都洛中に火を放ち、その混乱に乗じて帝(孝明天皇)に長州(現:山口県西部)へ御動座賜る(≒拉致する)ことにより、薩摩・会津に対する劣勢を挽回する……そんな過激派尊攘志士たちの陰謀を突き止め、彼らのアジトと化していた池田屋(現:京都府京都市)に討ち入って犯行を未然に防いだ「池田屋事件(元治元1864年6月5日)」。
新選組の声望が一気に高まる契機となったこの一件で、勘吾は六番組長である井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)に従って奮戦。